つくばの心理学2023
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うことは、カメの方も、すぐに私の顔を見て、その中でどれが目かということを認識し、注目したということだ。カメにとって、私は社会的な存在として認識されたのか。背景と区別のないオブジェクトではなく、コミュニケーションの可能性をもつ他個体として。大学院の「比較認知科学分野(※さまざまな動物の認知機能を調べることで、認知機能の進化を明らかにする学問分野)」に所属していながら、それまで認知機能の進化的連続性ということについてあまり真剣に考えたことのなかった私は、雷に打たれたような衝撃を受けた。 めいちゃんが我が家にやってきた2年後、夫はポスドクとして渡米し、私はつくばにある研究所に就職して、カメのめいちゃんとの二人暮らしが始まった。暖かい季節は毎日、ベランダのプールでエサをあげて、食べ終わったら水を換える。私が水を換えるためにプールの底にある栓を抜くと、めいちゃんはのしのしと歩いて自分でプールを出ていく。そしてしばらくベランダや部屋の中を散歩してから、新しい水のたまったプールに飛び込むのであった。 カメは、猪突猛進だ。行きたいところがあれば、障害物を乗り越えて、そこに向かってまっすぐに進む。行きたくないところに移動されそうなときは、短い手足をばたつかせ、断固として抵抗する。嫌いなエサは絶対に食べないし、好物がもらえるまで、いつまででも粘る。数か月絶食しても死なないからだ。だから、私がカメになにかを 研究アラカルト 33したとき、反応を観察することで、カメが何を考えているかの答え合わせがある程度できる。 ある日、私は気づいた。めいちゃんがいつも、餌を食べ終わったあとは片手を隠れ家として使っているケージの上にかけて、半分身体を起こしたポーズで、じっとこっちを見ていることに。そして時々、食べ終わってもそのポーズをしていないことがあり、それでも水を換えると、めいちゃんは水栓の上に腰を下ろして動かなくなった。断固とした、無言の抵抗だ。もしかして例のポーズをしているときは、水を替えてほしいのではないか。その仮説に基づいて行動してみたら、なんと水換えに抵抗されることが目に見えて減った。 これをきっかけに、私たちの間には少しずつ、目と手を使った「言葉」ができていった。人間もカメも共通して読める、視線の動きと瞬き。そして人間の手と、カメの前脚。「ごはん食べる?」「もっとちょうだい」「お水替えていい?」「いいよ」。参与観察をする文化人類学者は、こんな気持ちなのだろうか。コミュニケーションにおける相互作用ということを、本気で考えるようになった。 カメと人間のピジン・ボディーランゲージでめいちゃんとお話をしながら考え続けた企画は、その後なんとか形になり、今も同じテーマで研究が続いている。ありがとう、めいちゃん。感謝をこめて、明日はおやつに好物のエビでもあげようか。

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