田中崇恵 臨床心理学 た なか たか え 人と同じ体験はできない 「美味しそうな林檎があるよ!」と言われて思い浮かべるのはなんでしょう。真っ赤な林檎、うさぎ型にカットされたりんご、イラストのリンゴ、もしかしたら青りんご? 同じ林檎でも思い浮かべる人によって様々だと思います。赤い林檎を思い浮かべた人がたくさんいたとしても、そのどれもがおそらく異なるイメージでしょうし、そもそも全く同じものを思い浮かべているかどうかなんて確かめようがありません。 私たちはコミュニケーションにより意思疎通が取れていれば、きっと相手も自分と同じことを考えたり、思い浮かべたりしていると自然と考えています。これは当たり前のことで、その前提がなければ人とのやり取りが成立しなくなってしまいます。 しかし、それがその人の体験レベルになるとどうでしょうか。「失恋して苦しかった」「試験に失敗して辛い」という事象は誰しも経験があることかもしれませんが、どれひとつとして全く同じ体験ではないはず56 つくばの心理学 2023 研究アラカルト 現実はいくつあるのか? です。他人との経験を同じように体験できないですし、それが同じか違うかも厳密には確かめることすらできません。それなのに、私たちは「共感する」「気持ちがわかる」気になるのです。 心理臨床の場ではまさにその問題に直面します。臨床心理士・公認心理師なら「人の気持ちが理解できる」「人に共感ができる」と思われるかもしれませんが、それは非常に難しいことでもあるのです。目の前のクライエントが話していることは一体どんな体験なのか、本当にどんな気持ちなのか、そこに到達できない無力感やもどかしさを常に感じますし、「わかった」と思った途端にクライエントから遠ざかってしまっていることもままあることです。心理臨床の現場においては「わからない」ということを突き付けられ、そこからスタートするのだと考えています。 現実はいくつあるのか 先ほど述べたようにその人によって事実の体験の仕方、とらえ方は異なっています。
元のページ ../index.html#58