●最も心に残った斉藤さんの言葉は“介助をしてくれる、というより居てくれる方が重要”というものでした。(ニュアンス違っていたらすみません) 私は看護婦ですが、仕事上常に患者さんの介護をし、退院時には誰が介助をになってくれるのかに対して関わっていくことが焦点となっています。例えば1人暮らしとなる患者さんや日中介助者が居なくなる患者さんに、いかにヘルパーさんなど福祉サービスを利用することで食事、排泄、入浴など必要となる介助を提供できるか、ということのみです。つまり、介助の提供−身体的にニーズが満たされることしか考えていませんでした。もちろんこういった事も必要なのでしょうが「何かあった時の安全確保」「精神的な安定」も考慮しなければならないのだなと痛感しました。
⇒二つの意味がある,というか,二つの方向から考えていけるように感じています。
まずひとつ。もともと私たちの日常生活は何かの制限をあまり考えずに過ごせるようなところがあり,必要なときに間髪を入れずものを持てたり移動できたりします。介助を利用しながら生活を行う場合には,そもそもこの前提が脅かされていることになります。が,介助提供側からすると「自分一人では動けないのだから,それは我慢すべき,仕方のないこと」と認識される。もしこれを保障したければ,必要なときには居てくれて,不要なときには居ない存在が必要でしょう。
その意味では「安全確保」「精神的安定」と表現するのも間違いではないのでしょう。しかし気にしなければならないのは,“あまり意識することなく行動が可能な状態にあることが望ましいことでありそのためには<何かやらなければならない介助者>で居続けられても困る”にもかかわらず,現在は“それ以外での存在が許容されていない”,ということなのではないかと思います。
もうひとつ。介助論としてその距離感を示すにも,彼の言い方はわかりやすい,と思います。他の方も書かれているように,介助するということあるいは介助する自分と介助される相手との関係性や距離感というのは考えようによっては複雑になります。そのことについても改めて少し話すつもりですが,彼の言い方は一つの着地点として簡潔で分かりやすい表現だと思います。
改めて紹介する機会を持ちますが,このあたりの本も読んでみると良いのかもしれません。
小山内美智子「あなたは私の手になれますか −心地よいケアを受けるために−」中央法規,1997.
●私は介助をやった経験がなく、具体的に介助者がどんなことをしているのかわかっていなかったので、今日、少しですが話が聞けて良かったです。
介助者と友達とを気持ち的に区別するという話を聞いて、少し意外だったけど、私も日常生活にいつでも友達が一緒にいるわけではないし、そういった意味で納得しました。斉藤くんは、自立生活をしていくうちに、介助者の自分なりのとらえ方を確立していけたんだと思います。そして“友達”のとらえ方も。私のこれまであまり考える機会がありませんでしたが、“介助者”とか“友達”とか考えてみたいと思いました。
●私は福祉がどの程度、実際に利用をする人たちにかかわり、役立っているのかということに興味はありましたが、自分の身近に今まで身体障害者の人などと関わっていなかったので、今回、この授業の中で、自分がまったく知らない世界を知ったのと同時に、何か驚きや自分の知らなさにあっけにとられたという感じです。
⇒上記の意味での「福祉」がどのようであるかについては,別に話さなければなりませんね。部分的にではありますが,紹介していきたいと思います。制度や仕組みなども含めて。ただ予め申し上げなければなりませんが,この時間で話すことのすべてが「福祉」の範疇で語られるべきではないとも考えています。それを話しだすと,じゃあ福祉って何よ,ということになってしまうのですが...
介助をするかしないか
●障害者の方を見かけると、手伝おうかなと思ったりするのですが、逆によけいなおせっかいかなと思ってやめてしまいます。そのへんはどうですか?
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母が、地元の養護学校に臨時教員として、長年勤めているため、多少なりとも、色々と母と障害者について話す機会もありました。その中で私が日々感じることで、公共の場(たとえばお店や駅)で見かける身体障害者の方に、声をかけて(何か手伝うつもりで)よいのか結構、悩んでしまいます。相手が本当に助けを必要としているのならいいのですが、反対に迷惑となる場合もあると思うからです。
⇒斎藤氏自身,および斎藤氏の介助者よりそれぞれ興味深いコメントが届いていますので,そちらの方をご覧ください。
以下,私自身の考えです。
周囲から見て必要な場合もあれば不要な場合もある,それはわかることも有るがわからないこともある。どのようなときに必要かということや声をかけるタイミングなどは経験でわかることも少なくない。ただ,どんなに学んでも,どうしていいかわからないグレーゾーンなんていつまで経ってもなくならない。知っているのは本人なのだから,聞いて不要とわかるのであればそれでいいだろうと思う。私も先日同じ会場へ行く車イス利用の方に電車で会い,念のために電車を降りたところで聞いてみた。一応お礼は言われたけど,でもあまり時間を置かずに何名かの駅員が来て階段利用は問題なく行われました。で,他人となりました。それでおしまい。たいがいの場合,事前連絡によって駅員が待機していることも少なくないのだけれど,そのような準備に疑問を抱き,事前連絡無しで行動する方もたくさん居る。迷惑と言われる場合も有るかもしれませんが,それよりも結構ですとやんわりと断られるくらいの方が多いと思います。私たちだって突然声をかけられたら戸惑うしね。
そんな気遣いが不要になる社会であればその方が良いように思うのだけれど。
イメージ,同じと違う
●私の障害者へのイメージは、どうしてもマイナス的な要因のものが多いということに気付いた。頭の中では、障害の有無に関わらず、同じ人間で同じように生きていることはわかっているつもりでも、どこかでは、世間に対して“負”を背負っているのではないかと思ってしまっている。でも、こういうふつうに目の前に同じ大学生として何ら変わりなく話している様子を見ると、そういうふうにどこかで変に意識している自分がいるのだなあ、と痛感し、それが自分でとても嫌に思えた。どこかに“障害者=かわいそう”という固定概念があり、そのレンズを用いて同情という形だけで見てしまいがちなことは、多くの人にありがちなことだと思う。でも、このように直接体験を聞くと、そういう“偏見”が少しかもしれないがなくなっていく気がした。
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健常者が「自分たちは障害者と同じだ」と思うのと、障害者が「自分たちは健常者と同じだ」と思うのは、何か質的に違うような気がします。そういう気がしてしまう自分が何より寂しい人間だと思うのです。
あっけらかんと人間はみんな同じだと考えることは浅はかなことでしょうか。そう思いたいがために介助を希望することは、自分勝手でしょうか。考えるばかりでいつも行動のない自分から卒業したい気もちです。
⇒役に立つかどうかはわかりませんが,「同じ」「違う」を巡る議論は,講義の後半でテーマとして出したいと思います。どのような考え方が寂しいのかというのは人それぞれですので何とも申し上げようがないのですが,どのような考え方をするにせよ,知っておいていただきたいことはあります。その後,どのように納得するか,料理していくかは各人各様。とりあえず2学期後半をお待ちください。また,それまでにもう少し“質的な違い”を具体例として描けるようにしておいていただけるとありがたいのですが。
ボランティア
●最近考えているのは、ボランティアは自発的に始めるものなのだとしても、最初の気持ちが失われてしまった場合は、どうするのだろうということです。大方の場合は、そんなことにならないのかもしれませんが、いったんはじめたらやり続けなければならないという暗黙の前提があるとしたら、介助を始めようかと迷っている人には負担だと思うし、かといっていつやめてもいいのでとりあえず、という気持ちで介助者になられても困ると思うのです。
⇒これもいろんな考え方が有るので,決めつけないでいただきたいのですが,とりあえず私の考え。ボランティアというか,介助に限らず,理由が自発であれ何であれ人手はとにかく欲しい。その後で必要なことはそれぞれで考えることが出来る。
気をつけて欲しいのは,環境ボランティアであれ教育ボランティア,まちづくり,その他さまざまなボランティアであってもいいのですが,人(相手,社会)と関わりをもっていく以上は必要なルールくらいは守って欲しいということ。時間を守る,断りもなしにキャンセルしない,不明なことは情報交換する,やるべきことをやる,などなど。人と付き合い始めるのですから,終り方もそれなりにあるでしょう。アルバイトだって同じなわけだし。ボランティアはとりたてて特別な行為ではない。介助のときだけその責任が重くなるというわけでもない。まさかバイトはどたキャンしてもいいと思っていたわけでもないでしょう?
●先生はどうやって斉藤さんと知り合ったのですか?
先生がきわどいことまで質問されていたのでドキドキしながら拝聴していました。と同時に私自身がどのようにとらえながら聞いていけば良いのか探っていました。
「見せ物」という言葉を使っていいのか、プライベートなところはどこで線が引かれるのかなという疑問が残りました。どうしてそこまで答えなければならないのだろうと思われる面もあったと思います。でもだからと言って質問を保留しておいてささいな理由から誤解や偏見が生まれるのもどうかと思いました。友達の一人に車椅子の人がいるので、その人と多少重ねながら聞かせていただきました。
⇒すいません,会ったきっかけは忘れてしまいました。自然な出会いだったかというとそうでもないと思いますが,しかし恣意的だったかというものでもなかったような。何かの勉強会であったのでしたっけ。いや,ミーティングでしたか。ただ,いずれにしろ,私はは会う以前から彼の存在は知っていました。が,それ以上ではなかった。
質問内容と会話の流れについては大ざっぱに打ちあわせはしておきました。具体的な質問事項についてはお互いにシナリオ無しです。
プライベートなことをどこまで話すべきなのかというのはやはり疑問の残るところかもしれませんね。ただ,何をわかってもらわなければならないかについては,彼と私の間で大きな差はなかったように思います。その結果,プライベートなことについても披歴されたということです。「見せ物」であるかどうかは,伝えるべきものと伝えられたものが何であったかに従うのではないかと思います。