アクセシビリティ
●JRや地下鉄で事前に連絡しておけば、介助が用意されるということを初めて聞きました。最近では車イスで乗り込めるバスも増えました。このようなサービスがもっと充実すればいいのになと思います。他にどのようなサービスが整っているのですか?
⇒乗り物が使えるかだけではなく,建物・施設に入れるか,利用できるかということ,あるいは情報を利用できるか,等のことをまとめて「アクセシビリティ(accessibility)」と言います。交通機関だけに絞って考えますと,よくあるのはプラットホームの段差や電車とのすき間の問題,駅構内の点字ブロック,エレベータなどでしょうか。日本のある地下鉄駅(南武線でしたか)ではプラットホームに透明な壁?があり,電車が到着するとドアが開いて電車の乗降が出来るという仕組みのところがあるそうです。これなら誤って落ちることもないでしょう。
他に最近話題になることが多いのは飛行機でしょうか。車椅子利用でも臆することなく飛行機を使えるように(少しずつですが)なりつつあります。
国外ですと,駅で思い出すのはワシントンDCの地下鉄。車椅子利用の知人と一緒に移動したのですが,彼女のマンションから電車に乗るまで,駅員さんの手を借りることもなく雑談しながら行くことが出来ました。エレベータや改札の工夫があったということでしょう。また空港ではさっさと車椅子での移動を手伝ってくれるスタッフが居て,かなりよくに目に付きます。
ここでは書きませんが,情報面でのアクセシビリティの保障を進める声も大きくなってきています。大切なことですので,どこかで時間をとって紹介しなければなりませんね。
介助について
●「介助をするか、しないか」ということについて。私の友達にも障害をもっている人がいますが、やはり初めの頃は「困ったことがあったら助けなければ。」という気持ちを持っていました。でも、つき合いが長くなるにつれて、どこまで手伝えばよいか?ということで悩み、結局、本人に聞く、ということが一番だと思いました。障害者と言っても、やはり、それぞれなので、自分はどのように行動すればよいのか?は本人に聞くのが一番だと思います。また、道などで障害者に出会った時は、とりあえず気にとめておきますが、声はかけず、本人から声をかけられたり、困っているようであったら、自分から声をかける、というスタンスでいいのではないのでしょうか?困っていないのならば、助ける必要はないのですから。
●生活介助するしないの決定はかなり難しいのではないかと思います。一度するといってしまえば、その後にある程度定期的に行う責任が生まれてしまうような気がしますし、また、どう考えても介助者が少ないという現状から、自分の予定を変更する、犠牲にするといわなくても、ゆっくりしたい時間をけずる。というようなことが起こりうると思う。また、介助者の立場、被介助者に対して、どのような存在なのか、難しいところだと思う。空気のような存在っていってた人がいたけれど、それってどうゆうことなんでしょう。
⇒基本的なルールとしてバイトでも何でも契約したことを守るというのはあります。それは確認できていると思う。その上で“臨時に”お願いされることも有るでしょう。うーん,でもこれもバイトでも同じかあ。そういうときはやはり自分の都合を変えてまで引き受けなければならないこともありますね。個人的にどう対処するかは自分の問題だと思います。
ただし,同時に介助については社会的な問題としてどう考えればいいのか?ということがあります。お店側が利益のためにやっているのではなく,なぜかは知らないけれども自分の身にだけ降りかかっている(と言っておきますが)介助者の必要性を誰が解決しなければならないか,です。個人の問題と社会の問題が有るので,それは混同しないようにしましょう。また,忘れないようにしましょう。介助論については,また改めて致します。
“空気のような存在”については,書いた方ご本人にお答えいただけると嬉しいのですが...
●先々週、私が出した質問(障害者に対して手伝いをするべきか、否か)に対して、斎藤さんの答え(“どこで誰から障害者を見かけたら手伝うということを教えてもらったのか?”)は、少しショックでした。障害者だから助けるのではなく、困っている、助けを必要としている人だったら、誰だって助けようという気になるものですよ。それは、お年寄りにだってあてはまることだと思いますし、あまり障害者のみに限定した様に深刻に受け止めてほしくありませんでした。さて、先生の回答がやはり、自分の中では一番よい方法だと思いました。声をかけてみて、相手が必要としているなら手伝い、必要としていないなら、その場を立ち去る。でも、不慣れなことですから、声をかける方としても時々とまどいだってあるし、声をかけづらいこともあります。本当にそのような気遣いをしてしまう自分が嫌になるときがあります。
●〜誰から障害者を見かけたら手伝うということを教えてもらったんですか?〜
小さい頃に学校の先生に言われたことは、「老人なども含めて困っている人はすすんで手を貸してあげましょう」ということだった。しかし、それが一発で崩れた気がした。今までそう習ってきたことは多少なりとも間違っていたんでしょうか。困っている人を助けるという気持ちを込めて教えてきたことだと思うので、その教え、心がけは必要なものだと思います。
⇒斎藤氏流の言い方だと思います。というか,私の言い方が甘くてぼかしている,と言えるかもしれませんが。少なくとも印象には残りましたしね。
困っている人を助けるという大原則は間違っていないと思います。しかし“困っているのかどうか”を誰がどんな理由で決めるのか,は結構難しいのではないでしょうか。もしも「障害者=困っている人」の図式が無条件に出てくるようであれば,それは考え直してみなければならない。むしろ“ステレオタイプに見られることについてじっくりと考え直しましょう”ととらえ直してはいかがでしょうか。
もうひとつ考えていただきたいことがあります。“困っている人を助ける”原則だけで話が終わってしまうと,“ああ良かったね”とその場限りの話になってしまいます。悪くすると(というかしばしば有るのですが)障害者が困っている状況はその人自身の個人的な問題である,というところで思考が止まってしまうことを気をつけなければならないのでは?
いわゆる常識を覆すような言い方というのは,そのような問題意識を喚起させる意図が含まれているのかもしれませんね。私もわからないことだらけですけど。
自立について
●今回の講義の中で、自立、自己決定についての定義の問題や、生活モデルとして障害者との係わりを考えることのお話がありましたが、この自立、自己決定、生活することとは、私たち全ての人にとっての人生そのものといってよい問題のように思えました。教育で近年、不登校問題がよく取り上げられますが、不登校(学校に行かないこと)が問題なのではなく、本当に考えるべきことは、その人の自立、人生の選択、生活することそのものであり、一緒にいることの必要が言われるようにもなりました。今日の障害者に関するお話と共通することが多くあった気がします。
●障害者の自立という点で。住む家(アパートなど)を探すのに障害はないんでしょうか?いわゆる“普通のアパート”とかでも大丈夫なのかしら・・・?と思ったりしています。(部屋の敷居とか、玄関が狭いとかで車イスだと不便だったり)あと、大家さんに断わられたり(事故とか問題が起きて困るから)、とかはないんですか?あと、学校(大学)のしてくれることは何かあるんですか?学費免除etc・・・。
⇒授業では口頭で返信しましたが,改めて簡単に書きつけてみます。先ず,アパートは何件も回って探さなければなりません。何十件にもなることがあります。そして運良く理解のある大屋さんが見つかると,借りることが出来る。さらに運が良ければ改造する許可を得ることが出来るかもしれません。玄関にスロープをつけるとか,風呂場やトイレを入りやすくするとか,台所とか。しかしあまり改造許可まで得られることは多くないでしょう。ですから,借りた状態で住まいます。
クレームがつく場合としてはご指摘のように「何かあったら困るから」というのもありますが,さらには「訳のわからない人が出入りしている」というのも出てくるかもしれません。介助者のことなのですが....。
大学については,例えば現在はTAと同じようにして学習支援などを行う介助者を雇用するためのお金を提供してくれています。
●障害者の自立生活については今までの講義でも何度か取り上げられていたテーマであるが、何をもって「自立」というかということについてはとても難しいと思う。自分自身を振り返って、自立生活ができているかと言えば、まだ経済的にも親に頼っているし、自分のことが全部きちんとできているかというと、そうとも言えないと思う。今でも「自立」というと、自分一人で働いた収入を得て、身の回りのことができて、といったことを考える人が多いと思うが、誰でも決して、たった一人で生きていくことはできないのだから、支え合って生活を充実したものにすることが大切だと思う。
“同じ”と“違う”(2)
●先週の意見の中で、障害者を‘違う’という視点でとらえる自分が嫌いだ、という意見がありました。また、人は皆‘同じ’と思うことは浅はかか、という意見もありました。私は、障害者が自分と‘違う’と感じることは仕方のないことであるし、それを責めて無理に‘同じだ’と考えようとする必要はないと思います。もちろん、‘違う’ことで差別をすることは許されないですが・・・。逆に‘違う’ということに目を向けた方が、障害者にとって何が必要なのか、何をしてあげられるのか、が見えてくるのではないでしょうか。
●ILを始めた人は、「好きなように生きる」という権利を行使しようと思っただけだと思う。それまでの親や専門家は、今もそうかもしれないが、障害者本人の幸せが何であるかを勘違いしていたのではないだろうか。斎藤さんの回答を読んで、「人間は皆同じ」と簡単に言うのも無責任だと思った。社会的状況が違うのは事実だし、無視できない。
その他
●この前の授業で書いた質問の回答が見れてよかったです。あと、他の人の質問とか読んでみて、あ〜、なるほど、と思いました。いろんな疑問がありますよね。家に帰ってゆっくり読んでみたいと思います。
●障害者に対する接し方や生活についての興味が先週よりも増えてきたように思う。配られた斎藤君からのコメントや、先生の話などは、今まで知らなかったことや疑問には思っても口に出して聞いたことがないこと等が多くあった。「自立した生活」をしている障害者も数多いなかで、どのような暮らしをしている人が「自立している」と言われ、または「自立していない」と言われるのか興味深い。確かに、精神障害者等はどのような基準で考えられているのか、もっと詳しく聞きたいと思う。
⇒すいません,精神障害の方についてもきちんと考えていかなければなりませんが,私が前回申し上げたのは,知的障害のある方の場合などについてでした。確認まで。