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質問・意見に対する回答(第4回分)

<“障害とは”のとらえ方>

●障害とは何か?どういう人が障害者というのか?というのは、私が大学へ入学してからずっと疑問に思い続けてきたことだった。「障害者は、まわりにいる人が、あの人は障害者だ、と思うことによって障害者となりうる」という話を聞いてなるほど、と思った。確かに機能的には障害をもっていたとしても、何かで補えるのであれば、また、本人が障害を感じなければ、それは障害ではないのであると思う。もっとこういう話を聞きたいと思った。

●「障害者を決めつけるのは、まわりの人々がそう思うからである」ということについてそれはあると思います。友達に色覚障害の人がいますが、茶、緑、ピンク、水色などの違いがわからないらしく、私はよく色について話をしていたときに困らせていたようです。その人は私に実は色が苦手だといって「ま、障害者なんだよね」といってきました。でも、まわりがおもしろがってそのように色につて責めたりその事実を知らなかったならば、障害者ではなくて色が苦手な人というよりは、むしろちょっとしたその人の不得意なことみたいなものとしてとらえればいいのだと思います。確かに、障害者だというのが見た目で分かる人もいますが、自分が視力が0.03ぐらいだから周りの人から障害者というレッテルを張られるのいやです。やはり、みんな1コの人なんだから、傷つけるような言い方はしてはいけないと思います。

●今日の授業の中で「障害とは何か」という質問がありました。確かに、日常生活の中で敢えて「この人は障害者だ」などと決定できるような基準(というのも変ですが)もある訳ではないし、人と人との関わりの中で相対的に決定するあいまいな判断であると思います。人が人を障害者とみなすからこそ障害が生じるという理論は、そういった意味で正しいと思いました。今日初めて“言語的マイノリティ”という言葉を耳にしました。挙げられた例も大変興味深かったです。確かにある一定の社会での人々の認識の仕方によって、その人が障害者とみなされたりみなされなかったりすると思います。結局のところ、社会とそこに住む人々の意識が障害という理念を生み出しているのかもしれないと感じました。


●聾の言語がマイノリティーで、障害でないという考え方はどうかと思います。しかし、自分が障害者だ、あるいはあの人は障害者だ、という決定は医学的や行政的に決定されていたとしても、日常の中でそれを意識するかどうかによるのかなぁと思います。ろう者の言語や文化を主張することで、言語や聴覚の力とは関係ない考え方ができ、権利等の面でも対等になれればいいのかなぁと思います。

⇒社会あるいは他者にそのように見做されたときに障害となるという“見かた”については,多めの反響がありました。屁理屈に聞えたかもしれません。そこまで行かなくとも,単なる方便というか,「ものは言いようだな」と感じられたかもしれません。名川個人が面白い言い方をしている,と。だとすれば,それは私の説明が下手だったからです。どうもまだ勉強不足で...。もしWebに掲載されたときでもいいですけど,社会学などのほうからうまく説明できる方がいらっしゃいましたら,どうぞご指摘ください。
 無謀を承知でもう少し付け足してみましょう。先週,その他に示した,生理的?な定義の仕方が間違っているわけではなく,また行政的・サービス的に考えれば法律的に定められ動いていることも確かですよね。それらを認めたうえで,“では,私たちが実際に他者と関わり合っているときや,ある人を判断するとき(されるとき)には,どのように見做され・判断され・対応されているのだろうか?”という点を考えてみると,私たちは必ずしも上記の生理的な?基準を使っているわけでもなければ法律をとっさに思い浮かべて判断しているわけでもありません。ですから私たちの社会生活において他者あるいは「障害者」をどのように見做し対応しているかについては,実際の私たちの対応プロセスや行動を見回して,“どのように(how)行っているのか?”を見たほうが納得できることも有るのではないかと思います。そして,私にとっては,そちらの見かたのほうが,ずっと興味深く思えるのです。

●障害者であるかないかという問題について。私がこれまで接した聴覚障害者、身障者を通じてみると、障害者として扱われたい人が割りと多くいることを感じます。そして、援助を受けたい、と希望してきます。ノーマライゼーションと反するのでは?と思ったこともあるのですがどうでしょうか。概して中途からの障害者に多かった気がします。

⇒これはちょっとややこしい。
 先ず,介助・援助を利用することは障害のある人にとっては必要なことであるというか,普通のことであると思います。そのうえで関係を対等あるいはイーブン(even)なところから付き合いをスタートする。
 それから,“障害者として扱われたい”ということがどのような意味であるのかにも拠ります。どのように受け取ってお答えすればよいのか決めかねてしまい,きちんと返信できません。よろしかったらもう少し詳しく教えていただければ何とかなるかも。
 さらにノーマライゼーションについての部分ですが,ノーマライゼーションの理解に拠りますね。介助・援助が不要な行動=健常に近い,ということがノーマルであるということではありません。いわゆるノーマライゼーションの思想において「ノーマル」であることを要求されているのは,障害者自身(とその能力)ではなく,彼らも含めた私たちすべての“生活”,さらにはそのような私たちが住む“社会”の方なので。これについては資料を提供し,授業中にコメントを加えたいと思います。
 返信が見当外れでしたらご容赦ください。

●「障害」という単語のもつイメージの悪さを再認識させられた講義だった。「ろう者」という考え方も「障害者」と見て欲しくないためだろうし、それによる有形無形の差別がはるか昔から存在しているのだろう。こう考えが改善されるのには時間や労力が必要だろうが、「障害者」が認められるようになった歴史の流れを変えないようにしたいと思った。

⇒これについてはちょっと慎重に返信したいので,もう1回お待ちください。私よりもっと適切な人と話しあってみます。

<“同じ”と“違う”(4)>

●今回の“同じ”と“違う”は、割とショックでした。いくら議論してもあからさまに社会が障害者を「違う」視点でとらえることなど、そうないだろうと思っていたのです。私のこの思い込みは、多分、社会にも本音とタテマエみたいなものがあって、本音はどうにしろ、タテマエはきれいにしているだろう。という浅はかな考えからきていたようです。しかし、“同じ”と“違う”は考えれば考えるほど、壁を作っていきそうで、できるなら何気なく通りすぎてしらんぷりを決め込みたい気もするのです。消極的ですが。

⇒話題にしているのは,第3回のときに受講者のお一人から出たコメント(知人の話として)のことですか。それとも「違う」という視点や主張もある,という私の話ですか。それによって返信が違ってきてしまうので....。
 一般的に言うとしますが,“同じ”と“違う”というとき,上下に差がつく(つけられる)“違い”と,横に広がっていく“違い”があることにご留意ください。例えば私とあなたは違う人です。違うからこそ授業を通して付きあえますし,またその意味もある。この場合,“違い”は断絶を(そのまま)意味するものではない。ところが,そのような“違い”を上下の違いやそれ以上の区別(あるいは差別)にしているものがあるとしたら,それは何なのか,考えなければならない。また,私とあなたは同じ日本人ということで“同じ”でもある。“同じ”と“違う”は二者の関係を考えるとき同時にあるものだと思うのですが,どちらかをことさらに強調したい人もいたりするので困るのかもしれませんね。
 ...変な返信ですねえ。

<基礎構造改革ほか動向>

●行政の福祉に対する改革がなされているのはわかったが、企業や学校などにおいて、採用制度、入学制度などは改革されてきているのでしょうか。

⇒必要性の指摘はありますし,個々に少しずつ変わる試みはなされてきていますが,十分ではないと思われます。企業の方は「障害者の雇用の促進等に関する法律(障害者雇用促進法)」やその他関連する法律・制度などによって変わるべき筋道が付けられているといえるかもしれませんが,これと比較しますと,学校については個別的な対応努力に依存しているところでしょうね。教育制度については他の授業でも話されると思いますので,すいませんがそちらに譲ります。
 不十分な返信でしたら(でしょうけど),必要でしたらまた書いてください。

●社会福祉について改革とか新制度とかいろいろいわれていますが、それらの情報やどういう制度で〜という詳細は御本人たちにちゃんと伝わっているのでしょうか?

⇒いろんな会に入っていれば聞けるでしょう。会報・機関誌などでも読めるでしょう。具体的な行動(窓口申請など)が必要であれば誰かが話題にするかもしれません。ですがその他の一般的な話と同様に,伝わっているかどうかは分かりません。公的介護保険などの場合はかなりの広報や宣伝,さらには訪問などを行っているようですが,通常,情報は意識して入手するもののように思います。もともと諸サービスは自分から窓口などに言って求めないと得られないことの方が普通だと思います(申請主義)。
 となりますと,利用する側が困るのが,そこへ行って聞けばいいのか分からない,どうしていいかわかりにくい,などの問題でしょう。行政の窓口がまとめられたり,あるいは積極的なサービス・マネジメントを行う支援者が必要とされてくる所以だと思います。

<アクセシビリティ(2)>

●地下鉄の透明な壁・・・これは自殺予防のために作られたんだと思っていたが、車イスや障害者の人達にとってはとても役立つものだったんですね。

●私は夏休み、実家(東京)に帰って、新交通ゆりかもめの駅でステーションスタッフのアルバイトをしていまいした。ゆりかもめは東京の臨海地域である台場地区を走行している無人(運転手)電車です。ゆりかもめも南北線のようにホームに壁があります。また、私達スタッフは車椅子の方をエレベーターにご案内し、福祉割り引きの乗車券の手配、各駅のスタッフへの連絡など、あらゆるお手伝いをしました。これは仕事ではあるのですが、私には様々な障害者の方と触れ合う良い機会でした。東京は公共の福祉サービスが結構充実していると思います。サービスの充実には、自治体の姿勢や市民の声が必要であるのではないでしょうか。

⇒ある事業者と一緒に,行政の方と情報交換に赴いたことがあります。必要性を訴えたとしてもやはり“利用者さんからの声がなければ”という答えは聞かれるところです。ですから,利用者さんと事業者側が足並みを揃えて行政に要望を提出することで改善を見た例もいろいろ聞きます。
 昨今の諸改革についても,地方自治体がどう対応してくれるかで大きく異なるのであり(地方への権限移行も進んでいますし),またこれに対して市民の声を集めることは必要でしょう。ただし,うまくやらないとダメ。

●情報化が進む昨今、オンラインショッピングなどのネットを利用したサービスが登場している。私は個人的にこうした動きは必ずしも必要ないし、問題が生じると思っていた。(実際、専攻の社会学でそうした意見を述べている)しかし、この講義を受けるようになってから、こうした情報化、ネットサービスの拡大を福祉の観点から見たら有効ではないか。(出かけなくても買い物ができるなど)

⇒専攻の方で述べられたあなたの意見も理解できます。いろいろ問題点もありますよね。情報化に限りませんけど科学技術の進歩は時としてそれを使う人と社会に追いつけない速さで進歩しますね。例えばバイオテクノロジーもそう。私たちがどのように対応すべきかが一層問われているのだと思います。“情報バリアフリー”にしても何にしても,いろんな方々との議論,あるいは利益考慮の上にあるものだと思います。


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