<欠格条項>
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民主主義の原理のもととなっているのは、一人一人が違うということです。違いがそこにあるがゆえに生じた原理です。
そういうこともあるせいか、私は違うことはいいことだと思っています。違うからこそ、そこから生まれてくるものは豊かになると考えます。違うことがよくないと考えられることが多いのは、同じであるものを違うと間違えて捉えたり、違うことによって異分子を排除しようとするからではないでしょうか。
違うということに別の意味や価値をつける、そういう視点もあってよいと思います。
一学期間、ありがとうございました。
●以前News23の特集で拝見した「顔」シリーズの中に今日の講義の中でもあった“アザのある顔”について少し触れたいと思います。はじめ、テレビでこれらのいわゆる“Unique
Face”を持つ人々をみた時、(失礼なことは十分承知ですが)「ギョッ」としてしまったのは事実です。それはやはりその人々が目で見て人と「違う」部分があったからでしょう。
でははたして彼らは障害者でしょうか?ある意味答えは“Yes”かもしれません。特集の中で一番印象が強かった方は目の上に人の握りこぶし大のコブがある中年男性でした。彼はその「顔」を持つがゆえ、前の職場を失ったと言ってました。そういう意味で彼はある意味社会から疎外されており、当然誰しもがあたえられている権利というものも、失っている部分はあると思います。
しかし、彼は今は介護(?)か医者としての自分に満足し、精神面ではある意味自分では障害者とはみなしていないのでは?
● unique faceは障害か?
障害という言葉の定義によると思う。障害を日常生活に支障があるために、通常の行動ができない、ととらえれば、unique
face(EX.顔にアザがある)は障害とは言えないと思う。しかし、障害(バリア)の中には心のバリアも存在することも事実である。(偏見など)
もし、unique
faceの人が、この心のバリアを感じているのならその人は障害がある、とも言えると思う。
どちらである、とは言えないと思う。でもある、なしではなく、いろんな考え方がある、ということから、全体像をつかんでいけばよいのではないか?と思う。
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実際、“偏見”はなくそうとしてもなくならないのは確かなのでしょう。でも何となく、偏見があったっていいじゃないか、という考えは好きになれません。タテマエとして、偏見はいかん!ぐらいのことは言うのが正しい世の中なのではないかとも思います。私が色々なものごとを考えるにあたって、よく参考にしているのが、福田恒存さんの「人間は確かにエゴイストである。が、それを許さぬ良心を持っているのもまた、人間の大切な点である」という言葉です。今回に関しても、この言葉は適用できるのではないかと思います。
●ある実験を読んで
この実験を行った障害をもった青年の行動に対する反応として女子高生、大人の人達、そしてある強面の女性の反応が書かれていたんですけど、青年としては、この実験の反応のどれを期待していたんだろう?また被験者としたら、どういった反応をしたら良いのかが分からない。この状況が、もしも私に起こったら私は、どうするんだろうと考えさせられてしまった。先生は偏見を無理になくす必要はないとおっしゃいましたが、私としては、どうしても、女子高生が行った反応などは、偏見だよなあと思ってしまったりします。そして、偏見のない反応としたら、どういう風になるんだろうなどとも考えてしまいます。
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偏見をなくすというのは無理だという考えにはなるほどと思った。こういう考え方も、そういう考え方もありだと思う。だけど私の考え方はちがう、それは客観的にみれば偏見か?と思うことが時々あった。でもそれは単なる偏見ではなく、他を知り、他として認めとうえでの考えなのだと思った。
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偏見は取り除けないものであると認め、受け入れてよいと思う。どんな人を見ても偏見は生じ、きれいな人ほど感じよくとらえてしまうものである。障害者をみた時、「あっ」と思うのは、ふだん障害者と接する機会のない人にとっては当然で、日本で外国人をみるようなものであろう。その「あっ」と思うのは、嫌悪でも悪意でもないことを障害者の側の人たちにも理解してほしい。そこに深い意味はまるでないのであるから。
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この講義では毎回みんなの質問・意見がたくさんあげられ、興味深く読んでいました。
先生からの回答も色々と厳しい指摘をされたり詳しく説明されていたり、そうか、こういう考えもあるのだなととても勉強になりました。
毎回授業の初めにこのプリントが配られるのがまちどおしくて、配られるとすぐ読み始めていました。先生の方はホームページにのせたりプリントにしたりと大変でしょうがみんなの考えを知る良い方法だと思うのでぜひこれからも続けていって下さい。
● 今日の議題は「違うか同じか」ということでしたが、
このテーマだったことに対し、先生がこの授業で私達に伝えたかったことが分かった様に思います。当初、単なる社会の福祉制度を深く学ぶつもりで居たのですが、コマを進めるにつれこのような制度などは自分で調べれば分かることであり、それよりも重要なことを教えて頂いていると感じましたが、先生や毎回の皆の意見などは自分だけの価値観でとらえがちな「社会福祉」というものへの考え方を大きく変えさせたように思います。少なくとも障害者=私たちが守ってゆかねばならないもの、という考えではなくなりました。
貴重な意見をありがとうございました。毎回ご苦労様でした。
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未知のモノへの対処方略についてのお話は、配布された「ある実験」と合わせてとても興味深かったです。無視してやり過ごしたり否定したり、無理やり自分の(既製の)枠に押しこんで理解済としたり、様々な対処が対象それぞれに、人それぞれにあると思います。電車の女子高生も会社員も、「青年」に対する距離にさほど違いは無いように思われますが、最後の強面の女性の態度には、割と妥当性というか、その人なりにスジが通った対応というような印象を受けました。うまくまとめられないのですが。
●今回の授業は、1人では考えないようなことを、考えることができる機会となり、楽しかったです。
私は、ウェイトレスのバイトをしていますが、車イスのお客さんとか知的障害児とか外国人の方とかいらっしゃいます。はっきりいってはじめは、どのように接するのか分からず、視線が泳いでいました。しかし、なるべく、話をきいてゆっくり答えたり、不安がらせないように笑顔で答えたりしているうちに、最近は接するのが楽しくなっています。慣れなのでしょう。
この授業を受けていることもあってか、小さい障害児の子供などをこわがったりはしなくなりました。前は、何をするか分からないとか思っていましたがかわいい子だと思えます。
今日の言葉でtolerance(どーでもいいじゃん)と先生の解釈の仕方が印象的でした。そういえば、自分はすべて理解できているなんてことはないわけだし、分からなかったら、分かろうとすればいいんだと、この年で思ってしまいました。どちらかというとパニックするタイプなので、ためになりました。ありがとうございます。パニックにちなんで思い出したのが、体育でスクーバダイビングをやっているのですが水中で死にそうによくなっています
(後、まったく関係ないですが、友だちに新潟出身の人が多いです。なんか、みんなぶっとんでる人が多いです。)
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「偏見は全体の一部分であり、これに他の考え方を加えていけば良い」という先生のお話に共感しました。偏見は捨てようとすればする程、自分の中で強くなってしまします。ニュース23の『顔シリーズ〜ユニークフェイス〜』を私も見ました。アザならそんなに驚かなかったのですが、中には「恐い」と思ってしまう顔の人もいました。そのように思う自分に罪悪感を感じます。けれども、「恐い」という生理的感情をコントロールすることは難しいことだとも思います。たとえ顔の様相が通常と異なっていたとしても、その人は悪い人だ、と直結して考えることは私はしませんし、他にも私と同じような考えを持っている人はいるのではないかと思います。
一学期間ありがとうございました。