IV 先行研究の検討

 1 ヘッドスタート計画の歴史


 エドワード・ジグラー, スーザン・ムンチョウ著/田中道治訳『アメリカ教育革命 : ヘッドスタート・プロジェクトの偉大なる挑戦』(学苑社, 1994)、および、エドワード・ジグラー, サリー・スティフコ編著/田中道治訳『アメリカ幼児教育の未来 : ヘッドスタート以後』社, 1998)では、ヘッドスタート計画開始の時代的政治的背景を次のようにまとめている。
  1964年当時、ジョンソン大統領の「偉大な社会」の教書演説や「貧困に対する戦争」のキャンペーンを受けて、1964年経済機会法が制定された。この法律により経済機会局(Office of Economic Opportunity)が設置され、1.職業訓練センタ、2.地域行動プログラム、3.国内平和部隊のプログラムが設けられた。このうち地域行動プログラム(Community Act Program)は地域で貧困層の自立を促すプログラムへの補助金を拠出する政策であった。しかし当初の計画は大人を対象にしており、また思うようにプログラムが実行されなかったため、経済機会局長官であったシェライバーは、貧困層の3歳から5歳の幼児を対象にした、総合的早期介入プログラムであるヘッドスタート計画の着想に至ったのである。
 またエドワード・ジグラーらは、経済機会委員会の報告書で全米の3千万人の貧困層のうち半数以上が18歳以下の子供であったという事実が、ヘッドスタート着想の要因であったと指摘している。また神田(1990)はヘッドスタート着想の一要因として、シェライバーが地域行動プログラムへの批判をかわすために、次のような論拠を用いたことを紹介している。
1.白人の中産階級はマイノリティーの大人に対しては差別的であるが、子供にはそうではないこと、
2.アメリカの主流社会に教育の力で少数民族の子供たちを統合することには理解が得られるとの考えに基づいて、子供に焦点を当てたこと
、と神田(1990)は指摘している。実際この論拠に基づきヘッドスタート教育は米国民の多数に指示されたのである。
 最初のヘッドスタートプログラムは、小学校入学までの数週間のサマープログラムであったが、そのうち規模を拡大し9ヶ月から1年のプログラムになっていった。それまで多くの州では公立の就学前教育の期間がなかったことに加えて、ヘッドスタートが、知的教育のみに留まらず、健康の促進や親の教育を含めた総合的なプログラムであったと言う点で、ジグラーはこの計画を評価している。
 統合的な学習前プログラムであるヘッドスタート計画には、体の健康、親の関与、家族のための社会事業、幼児教育の四つが柱として考えられていた。  しかしヘッドスタート委員会に集められた学者たちの「まずは実験的なプログラムとして開始する。」という見方よりも、ジョンソン大統領をはじめとする政治家たちは、ヘッドスタートの急速な普及を促進したのである。
 その結果ヘッドスタート計画は10万人の子供たちに恩恵を与えると同時に質の低下を招くことになった。当時ヘッドスタート計画の評価は、神田(1990)やエドワード・ジグラーらが指摘するようにIQ偏重で行われていた。したがって計画開始まもなく次のような批判がなされるようになった。
1.ヘッドスタート修了者のIQの優位性が長続きしないこと、
2.幼児の年齢が不適切であり、
3.親のプログラムへの参加が限定されていること。

 こういった批判を受けて、1967年には対象年齢を3年生にまで引き上げたフォロースルー計画がスタートしたのである。しかし神田(1990)はその内実は、ヘッドスタート計画の対象年齢の幅が3年生にまで広げられたに過ぎないのみならず、実施地域とプログラムを厳選したことにより、地域の資源を総動員するというヘッドスタート計画の利点をも弱めてしまったと指摘している。
 さらに1969年にウェスティングハウス社とオハイオ大学の調査によって出された「ウェスティングハウス報告」によってヘッドスタート計画への風当たりは厳しいものになった。 この報告書では、ヘッドスタート修了者のIQの向上の持続性が見られないことやヘッドスタート修了者は他の貧困層に比べては優位であるが、白人の中流・上流家庭の子供たちとの比較では依然として不利なことがしめされたからである。この点に政策決定者や国民は注目したため、ヘッドスタート計画は批判された。神田(1990)は、総合的なプログラムとしてのヘッドスタートのもう一つの側面である、子供たちの健康状態や地域への影響を評価するべきであると指摘している。それによれば、ヘッドスタートと関係した教育・保険期間の多くで、貧しい地域住民や少数民族が意思決定や運営に関わるようになったと指摘している。 また、ジルガーらによると、ヘッドスタートを終了した子供たちの心身の健康状態は、そうでない貧困層の子供たちに比べてずっと良い状態で保たれていたことを指摘している。このような成果が認められヘッドスタート計画は、廃止を免れ、1969年にニクソン大統領の下で保険教育福祉省(Department of Health Education and Welfare)(後に"Department of Health Human Services"に改称)のプログラムになる。1974年にはヘッドスタートの関係者が、同プログラムに関する予算を国会で確保するために、全米ヘッドスタート協会(National Head Start Association)を組織する。その後カーター政権によって、健康教育福祉省は、教育を所管する連邦教育省"Department of Education"と健康人間サービス省"Department of Health and Human Services"に再編され、1980年に連邦教育省が設置される。 アメリカ国民の教育を受ける権利の保障と各州の教育政策の支援を目的とする同省の設立に当たり、カーター大統領はヘッドスタートを教育省のプログラムにすることを試みる。しかし興味深いことに全米ヘッドスタート協会はこれに反発し、保健福祉省のプログラムとして留まるのである。 レーガン政権に入るとヘッドスタートのための予算は他の福祉の例に漏れず大幅にカットされる。しかしヘッドスタートプログラムは存続し、現在では84万人の子供たちが毎年恩恵を受けている。

 2 日本におけるヘッドスタート研究


 日本におけるヘッドスタートの研究としては、神田(1990)によって、保障教育としてのヘッドスタート、ならびに、ヘッドスタート計画の欠陥を補うために1967年に導入されたフォロースルー計画の考察を通して、アメリカの幼児教育思想と政策の移り変わりが分析されている。
 神田はヘッドスタート開始の時代背景として、1950年代に始まった「児童中心主義」から「知的優秀性」を求める「学問中心」の教育観への転換があると指摘している(神田,1990)。1957年のスプートニクショック以降、この教育観は、この「学問中心」にアメリカ国民を注目させたのである。つまり一要因として、学問中心の教育観が高等教育から幼児教育へと広められたことが上げられるのである。
 以上のような分析を踏まえて、神田はヘッドスタート計画とその後のフォロースルー計画について次のように整理して述べている。
@少数のエリート確保のためであった知的優秀性と学問中心の教育が貧困層やマイノリティーにも権利として捕らえなおされたこと。
Aその一方でアメリカのマイノリティー集団を教育によって主流派の文化に統合しようとする同化政策だったという側面。
B子供たちの同化の度合いや達成度を認知得点やIQに求めたこと。またその流れは今日にまで引き継がれていること。

 

 3 ヘッドスタートの評価


 Dayana Sorianoらは2006年8月の"Association of Teachers and Educators"の会議での発表でヘッドスタートと"No Child Left Behind"の関連性について述べる中で、ヘッドスタートを次のように評価している。
1.短期的にみればIQや認知能力の向上が見られたこと。
2.長期的には低所得層の子供たちの学校への適応、すなわち中退率の低下や犯罪に関わる率の減少である。

この2点は以前からのヘッドスタートの評価と適合するものであろう。したがってヘッドスタート計画は、貧困層の子供たちの学業達成状況の改善にある程度寄与していることが認められていると考えられるのである。

 4 リーディングファーストと"No Child Left Behind"


 2001年にジョージW.ブッシュ大政権で落ちこぼれの子供たちをなくすためにNo Child Left Behind法(以下NCLB)が制定された。新規の早期介入プログラムであるリーディングファーストはこのNCLBの目標の一つである、読み書き能力の向上を促進するために始まった。リーディングファーストプログラムとは、科学的な理論に基づいて、幼稚園入学前から小学3年生までの子供たちの読み書き能力の向上を図るプログラムに補助金を支出するというものであった。このリーディングファースト開始の背景として、連邦教育省長官であったロッドページは2001年の国際リーディング協会での年次総会でのスピーチで次の4点を挙げている。( Rod,2001)
1.前年のNAEP(National Assesment of Educational Progress)によると4年生の3分の1以下の子供が十分に読み書きできなかったこと。
2.読み書き能力は子供たちの生涯にわたって必要になること。
3.小学3年生までに読み書き能力の習得が比較的容易なこと。
4.以前よりも科学的根拠に基づいた読み書きの指導が可能になったこと。

またNAEPを引用して彼は、子供たちの学業達成状況は、良い生徒はよりよく、悪い生徒はさらに悪くというように格差拡大の傾向を示しているとしている。またDayana Sorianoらはリーディングファーストの意義を次のように記述している。
1.ヘッドスタートプログラムにおいては、根拠に基づいた科学的な指導は行われていなかったため、リーディングファーストによる科学的研究に裏打ちされた指導が必要だったこと。
2.同じ目的を持つヘッドスタートを保管するプログラムとしてのリーディングファースト
3.アカウンタビリティーを求めつつ、州や各学校の裁量権を広く認めたNCLBの下でのプログラムであるため、より柔軟な運用が期待されること。

 実際にブッシュ大統領はリーディングファースト開始の年に9億ドルの支出を決定したとロッドは述べており、NCLBの中心的なプログラムであると考えられるのである。

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