質問・意見に対する回答(第6回分)
本日18時30分より本学1D204で小山内美智子さん(札幌いちご会)の講演会があります。是非ご参加ください。資料を配布し,またこの回答の中でも紹介します。
また,障害児者虐待に関して今後ゲストを呼ぶかもしれません。また秋休み前後に講演会があるかもしれません。改めて連絡します。
あ,それと,この資料は「回答」であって「解答」ではないです。正しい答えを返しているわけではないです。
●10月25日(金)に,札幌いちご会の小山内美智子さんが来て障害者の自立生活について講演します。場所は,1学D棟204教室,開場18:00,開演18:30です。是非,聴きに来てください。と,もしよろしかったら,「質問,意見に対する回答(第6回分)」に載せていただけるとうれしいです。
→ということで,資料を作りました。新聞記事も載せました。新聞社にも手配するなんて行動力ありますね。見習わなくては。
ところで,小山内さんのお宅にはちょっとだけお邪魔したことがあります。いちご会(札幌のCIL)にも行かせてもらって,生活体験室などを拝見しました。他の人(東京都心身障害者福祉センターの****さん)に連れられて。何年か前だし。だからお忘れでしょうけどね。自問研(現自立研)の札幌大会の前だったと思います。その節はお世話になりました。講演会には残念ながら行けないのですが(ほんと残念),よろしければ知人にカセットを頼んでありますので,録音させていただけませんでしょうか。
なお,ビラに紹介されている書籍のほかに,文献紹介欄にいちご会の研究資料を紹介しておきました。
●親が,障害を持って生まれた子供に対して罪悪感を感じるということから思いあまって殺してしまうまでの過程を書いてあるような本はありますか?(この授業のテーマからはずれている気もしますが・・・)
→浅学にして,小説では思い付きません。ルポ?論説?なら本多勝一氏のもの(★1)がある。古い文章になってしまったが,状況的に変わっていないところもあるので,読んでもいいと思う。文章自体は短いです。他に,殺すまでは行きませんが,類似話題をテーマにする小説はあります。大江健三郎氏は初期の小説から息子さんの出生を契機にテーマを変えてきていますね。「個人的な体験」では踏ん切りがついて主人公の再生へと向かいます。でもその前に書いた「空の怪物アグイー」(短編)では少し違った書き方だったように思います。他に曽野綾子氏が「華やかな手」の中で先天性奇形の我が子をめぐる主人公を書いています。思い余ったことをするんだと,読んだ人は言っていました。私は読んでいない。あと,「神の汚れた...」という本も関連したことを扱っているらしい。
ここに書いたこと,あるいはそれ以外の情報を持ってらっるようでしたら,お教えください。
★1:
本多勝一:母親に殺される側の論理.殺される側の論理,9-16,朝日新聞社,1982.(初出は「潮」1974年)
それと,横塚晃一「母よ!殺すな」(すずさわ書店)は,一連の闘争の端緒のようなもの。
●本日の授業でプライバシーにかかわる介助のところに関しての感想です。 私は,看護婦ですが,当然,日常生活の援助を仕事としていますので,プライバシーにかかわる援助をします。
先生のお話しでは,病院では上下関係として処理するとのことでしたが,そういうところもあるとは思いますが,やはり雇用関係もあると思います。というよりも,雇用関係で接するべきだと思います(でも本当は人間関係親密だと思います)。看護婦は患者さんとの上下関係はつくらない,対等であると習ってきていますが,やはり役割的に,上下関係になってしまうところもあって・・・・常に対等を意識するよう心がけています。
→ズケズケ私も言いましたものねえ。看護職の方がいらっしゃることは認識していましたので,何らかのお話が伺えれば,と思っておりました。コメントしてくださってどうもありがとうございます。構造的な関係性の規定がありがちであることは,何も病院だけではなく,施設やその他たくさんあります。大学もそうですね。つまり私も。ただ遠藤周作氏のキャンペーンを挙げるまでもなく,病院でも意図的な努力は行っているわけですし(カリキュラムはおろか,最近山口大に関連講座ができたと話を聞いた,乞容赦不明確),やっているところもあればそうでないところもあるということではないでしょうか。
ただ,今まで障害者問題あるいは自立に関する議論というのは,いわゆる医療モデルから社会モデルへの移行努力を抜きにしては話せない(といいながら抜いてるなあ>私)ほどなので,申し訳ありませんが,病院や施設への風当たりが強くなってしまいます。まじめに話しあってみたいものですね。
●障害者,高齢者などに限らず,人間が完全に independent でいることなどはあり得ないと思いますし,dependent であることの度合いに差があったとしても,その中でどう生きるかということが問題であると思うからです。
→今回は interdependent の話から始めます。うまくまとまるかどうかわからない。つまんなかったら寝ましょう。その前に文句を言ってほしいけど。
●障害者と友達になることと,健常者と友達になることは違うと最近介助などを経験する中で思います。障害者とのつきあい方が,人間関係の重さのようなものがはっきりとあらわれるのではないか,と思います。健常者より障害者の方が周囲の人からつき離されてひとりで生きていくのが,絶対に難しい(不可能・・重い障害の場合)からでしょうか。「友達になる」ということの意味の各自の受け取り方によっても「友達からはじめられる,られない」論争に対する見解は変わってくると思います。
→うーむ。そうなのですか。勉強になります。たしかに状況の重さというのはあるのかも知れませんね。根本的な問題はもっているわけだから。ただ,非障害者の場合でも重さのようなものを考えることはあります。その人のヒストリーが複雑なときとか,その人の悩みの前
●学祭の時のたけとんぼはよくとんだでしょうか。「たけとんぼのおねえさん」は私です。
→その節は息子共々お世話になりました。頂いたほうは飛んでます。私が作ったほうは見向きもされません。来年はきっと上手になると思う。きっと。
●what to do と how to do の話を聞いて,更に障害者への接し方がわからなくなった。
●まだまだ勉強不足なので,介助とかするときに,至らないのは当然ながら,失礼なこと言ってしまったりやってしまたりしそうでこわいのです。ただの知りあいになれたらいいと思ってはいますが,キッカケがありません。
→類似の感想もいろいろいただきました。関係の難しいところばかりが強調されてしまいましたか? 困ったなあ。しかしどこかで考えることでもありますし(考えない場合もありますが)。こういう悩みって,百聞は一見に如かずってところはあります。
用語(含差別語)問題でもそうですが,問題点ばかりをあげつらうことばかりに終始すると,今度は言葉を使うのが怖くなって腰が引けることはありますよね。問題は言葉そのものではなく文脈なり使用者に内在するものである,というのが一般的な収束点のようです。で,そのようなときに話題になるのが「無知の罪」ということです。しかし無知の罪というのは個人的なことでもありますが同時に社会的な事柄でもあります。やたらと内罰的であることは事態の好転に何ら寄与しません。
個人的な意見を申しあげます。例え今はあまり前進できなくとも,現在のあなたの到達点にあなたがいることを,先ずは大切にして,次の前進の機会を待ちませんか? 問題から目を反らさずにいる限りはまた前進できるチャンスはあります(100%受身でも困るんだけど)。
淡々と。したたかに。しなやかに。自分をあきらめない。
#今回はますます混乱させるだろうか...。
●自立,生活保護の話でしたが,もう少し板書が多ければ・・と思います。わりと話が飛んでしまって,ノートがまとめにくいのでお願いします。
→あせってますね,私。予定した内容をすべては話せません。今回はどうなるか。
●旭さんの文章の中で出てきた「CP」とは何の略ですか?
→注釈をつけませんでしたね,すいません。脳性まひ(Cerebral Palsy)です。
●それと,この話が出てきたというNGの場所も教えてください。(多分fjのどこかなのでしょうが・・)
→残念でした ;-) ニフティサーブの障害者フォーラム(FHANDC)というところです。ライブラリの中にありますが,私も検索できなくて他の人にメールで尋ねました。
●学生からボランティアをつのって介助してもらうというのは,自立なのでしょうか。それとも,自分でお金を出してヘルパーなどを頼まないと自立とはいえないのでしょうか。
→まず,宿舎などで一人で住みたい,という気持ちから始める。これを肯定するとき,ボランティアにやってもらうのか,それともお金を出すか,というのは次の問題になるのではないかと思います。もちろん,どうやって,も大切でしょうが。
●学内で不便なこと その2
学内バスについて:次の停留所をアナウンスしないので,目の不自由な方には不便なのでは? 車イスのまま乗れるバスと乗れないバスがあるのですが,どれがどういうバスかは時刻表を見てもわからないのですが・・。別に車イスの方は困らないのですか?
宿舎について(これは学校側にいってもムダかしら?):共用棟にエレベーターがない(もちろん居室にも)。洋式のトイレがない。目の不自由な方は,あのメールボックスに不自由は感じないのでしょうか
→実際どうであるのかは,聞いてみないとわからないな。28日の情報交換会のときに聞ければ聞きます。
●僕も自己−他者の問題には興味があります。その1つの側面として健常者−障害者の問題をとりあげるのは有効だと思います。
しかし,注意が必要なのは,健常者−障害者の関係性の中には歴史,社会,文化的に健常者優位の価値観が,健常者にも障害者にも組み込まれていることです。この関係性の勾配についても考える(歴史社会学的アプローチも1つの手段)のが重要です。
→歴史的社会的関係性の中に埋め込まれて私たちが生きていることは理解できます。これを検討しないかぎりは理念的に確固たる姿勢を形成することは不十分になるでしょうね。と同時に practical な視座としての心理学的なアプローチもあるのでしょう。どちらの方がより大切ということはないと思います。
ところで,歴史的な観点であれば,津曲教授などの教官がいらっしゃいますので,そちらの授業を受けるのも手です。また書籍であれば★2なども参考になりましょうか。また社会学その他の見方を考えるのであれば,黒人学,女性学の出現の流れとその中でどのような問題があったのかを見ることもよいかもしれません。minority が majority ばかりの社会の中でどのように認められていくのか,いかないのか,私もちょっと気にし始めたところなんですが。松兼さんの比文での卒論が関連あるかな。本になってますね。「正の文化・負の文化」(出版社不明)。買わなきゃ(^^;;。またいろいろ教えていただけませんか?
★2:
花田春兆:日本の障害者・今は昔.こずえ,1990.
●子供の自立生活のために親がある種の壁になってしまうという意味はよくわかります。しかし,今の日本の社会は,障害をもつ子供に親がいつもついていなければいけないシステムになっていて,親は「親の仕事」だけをしていて,自分の人生の半分を過ごしているので,子供から離れにくくなることは当たり前だと思います。子供が自立する年齢に達する前から,親も自分の人生を楽しむことのできるように,託児所のようなものがあればよいのにとよく思います。急用のときや冠婚葬祭のときだけあずかります,という施設はありますが,そのように「場合」を設定しないでほしいです。
→ご指摘の制度は「緊急一時保護制度」あるいは「短期入所制度」と言います。それで,あなたの言うような問題があって実際には利用できないということで,草の根的に柔軟なサービス体制が始められるようになってきました。これをレスパイト・サービス(respite service)と言い,一時預かりのみにとどまらない広範なサービスを指すときには家族支援(family support)と言います。残念ながら時間的にこの話題にまで辿り着けそうにないです。
●福祉という道を志し,やる気満々で仕事についたものの,上からの命令,現場の事務的な仕事の忙しさに押されて,思うように,福祉を必要とする人に接することができないというケースワカーさんの話を読んだことがあります。
→「何か変だ」と思いながら次第に周囲のやり方に巻き込まれて当初の気概をなくしていく,そのような状態を「施設病」と呼んで解決策を提唱する本があります。著者の久田さんご自身がもと施設職員であり,その後渡英して研究活動に移った人なので,実感のこもった話題提起と行動提起をしてくれています。文献紹介欄に書いておきますので,よかったらどうぞ。
●「波紋の会」(資料新聞記事参照)では,男性の介助なので,トイレやおふろは女性はやらず,仕事はごはんをつくって,食べるための手伝いやそうじ,買い物くらいです。時間によっては,ほとんど仕事がなく,本を読んで過ごすことも・・。
そのことに対して,介助に入っている意味がない,という人もいて,論議になったこともありました。私は,楽でいいなあと単純に考えていたので,そういう考えをもった人がいることに驚きました。
介護とは何なのか・・についても考えさせられました。わたしとしては,決められた時間の間,そばについていることだけで介護になると思います。それだけで障害者のかたが安心して暮らせるのなら,もし,おふろやトイレを頼まれたら不安ですけれどやれると思います。介護とは,介護者がでしゃばって何かをしてあげることだけではなく,頼まれたことを手伝う・・だけでよいのではないかと,私は考えていますが,どうでしょうか。
→実は同姓介助の原則はここ何年間の間にやっと一般的になってきたばかりです。たいしたもんでしょ,現実って。もちろん,原則だけではどうにもならないことも有るかもしれないですけど。
で,「ただそばにいる」や「待機」を「介助」のカテゴリーに入れるかどうかはわかりません。しかし介助契約時間内に何もしない時間ができることは有りうることだと思いますし,介助かどうかは別にして何もしないでいる時間というのもいいんじゃありませんか? 主体者が満足していれば特に問題にならないのでは,というのが私の感想です。
#ところで「介護」なの?「介助」なの?
文献紹介
・久田則夫:施設職員実践マニュアル−インフォームド・コンセントにもとづいた利用者主体の援助プログラムの勧め.学苑社,
・障害者自立生活問題研究会,自立生活センター問題研究委員会:「自立センター」設立への道すじ−札幌いちご会の実践の検証−,障害者自立生活問題研究会,1991.
・定藤丈弘,岡本栄一,北野誠一(編著):自立生活の思想と展望,ミネルヴァ書房,1993.
・電通総研(編):NPOとは何か−社会サービスの新しいあり方ー,日本経済新聞社,1996.
・明治学院大学立法研究会(編):市民活動支援法−ひらかれた市民社会を築くために−,信山社,1996.
・フィリップ・コトラー,エデュアルド・L・ロベルト(著),井関利明(監訳):ソーシャルマーケティング−行政改革のための戦略−,ダイヤモンド社,1995.
・P・F・ドラッカー(著),上田惇生,田代正美(訳):非営利組織の経営.ダイヤモンド社,1991.
・千葉大学文学部行動科学科社会学研究室:NPOが変える!?−非営利組織の社会学.千葉大学文学部行動科学科社会学研究室&日本フィランソロピー協会,1996.
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