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回答:第2回
前回の回答文中で佐藤さんを紹介すると言いましたが,きちんと出来ませんでした。ごめんなさい>中村氏
今回もう一度手を上げていただきたいと思います。中村氏に興味のある方で直接部屋を訪ねるなどがちょっとためらわれる方,どうぞ佐藤さんまでご連絡ください。
後半,時間切れできちんと回答できていません。ごめんなさい。
全般のこと
●まだ読んでいないが,他人の意見や感想が読めてよい。
●前回の感想を読むのと授業が同時進行でやな感じでした。
→両方あると思います。この印刷配布の方法は意見交換にはよいのですが,しかし新しいトピックスに移っていきにくい。ある程度「読むための時間」を設けるというのも一案ですが,まだそこまでは考えていません。次の方のような対応もありえます。その場で話し合うこともやれればやりたいのですが,それはみなさんの反応次第でしょう。とりあえずは現在の方法を続けていければと思います(作業が間に合わなくなくて出来ない恐れはありますが...)。
本日は,これを配布した後少しづつコメントを口頭で伝えることもやってみます。
●授業中に中村さんのコメントを読む余裕がなかったので,ききたいことなどあったら次回書きます。
→どうぞ。それも構いません。
●福祉などのことについてはビジネスチャンスが広がっている市場としか見てなかったので別の角度から物事をみれてよかった。
→市場としての福祉領域は最近富に話題にのぼるところかと思います。マスコミで最も目にするのは高齢者の介護サービス業,あるいは有料老人ホームなどのビジネスでしょう。ぱっと話題になったがゆえに,問題もいろいろ噴出しているように私には見受けられます。また児童福祉法改正に伴う,保育園民営化の動きもあります。実際,具体的な反応などもいろいろ伺うことが出来ます。これについても行政の公的責任の部分をきちんと把握したうえでの動きが必要なのではないかと考えます。ま,いずれも勉強不足なんですけど。
さて障害の部分なのですが,福祉機器の開発だとか民間営利あるいは非営利の活動はやはり目にするようになってきました。他のギョーカイ(高齢者,保育)に比較すると市場は狭いかもしれませんが,これから考慮すべきニッチ(niche)な領域ではあると。それに企業倫理やイメージの問題もあるし。また利用する側からすれば,今まで不十分で窮屈なサービスしか使えなかったところをさまざまな供給先に求めていくことが現在は求められているのでしょう。それ自体は歓迎すべきところではないかと思います。ただ,他の領域と同じように,サービス提供がある程度進んできたときに,今度は問題点も指摘されるようになってくるかもしれない。その辺を注意しながら情勢を眺めましょう。
.....で,「ニーズ」をどうするか,という点でこの授業の話も似たところがあるかもしれません。その辺を考えながら今後(特に後半)お聴きくださいな。
●私たちは,『今が健康だから…』と,思いがちですが,いつ障害をもつかはわかりません。だから今日の授業のような内容の知識をなるべく多くの人に知らせた方がよいと思いました。
→このところ多少見かけるようになってきた言葉に“TAB(Temporary
Abled
Body)”というのがあります。いわゆる健常者の側を指します。長い生涯を見渡せば,障害のないときなんぞホンの僅かでしかない,という認識に基づいています。これを州法に用いているところがアメリカ合衆国にはあるとか。
●母が障害者グループの介護者ようなものをしていて,ある時,ディズニーランドに車いすを押しにきてくれと頼まれました。結局日にちが合わず行けなかったのですが,並ばなくていいんだよ,と誘われました。そんな仕組みがあるなんて,普段はまったく気付きませんでした。中村さんもそれはおかしいこととおっしゃっていましたが,本当にそうなのかな?
→中村さんの文章を読み返してみましたが「障害は個性という認識と,割引や優先などのサービスを混同させてはいけない」という主旨が書かれているように思いました。両者に矢印(→)関係はないというのは私も賛成します。ちょっと中村さんに確認しなければなりませんね。宿題にさせて。
ところで昨年もやったのですが,東京ディズニーランドが他のところと違うのは,割引が無く他の対応を設けているところです。例えばあなたのおっしゃるような。他にどんな対応がある? そして割引とそれ以外の対応の考え方の違いは? そしてその是非についてはどのように考えますか?
●以前こういうことがあった。
中村さんのような脳性の障害のある方がスーツを着ていて,
「今日はどうしたんですか。そんな格好して」と聞いたところ
「お見合い」と冗談をいっていた。
私たちとかわりませんよね。
→そうですね。そういうことですね。
概要説明の部分について
●障害の程度(1−7級)の内容についてそれぞれの障害別に示されている資料が欲しいです。
→今回配布のうえ補足します。他にも基本的なことで不明なところがあればリクエストしてください。“可能な範囲で”対応します。
●身体障害者とされる人が,日本では人口の3パーセントもいるなんて驚きました。普通に日常生活を送っていてそんなパーセンテージで身体障害者に会うことはないし,見かけることだってありません。(中略)
これは障害を持つ人が『見えない』ような立場に追いやられているということなのでしょうか。
→私は3%の数字でも少ないのでは?という認識ですけど。ただ,前回言いましたように,高齢者の数ともある程度ダブってはいるのですが。
また『見えない』ということはあるかもしれません。養護学校や施設などの限られた場所にばかりいるという指摘もあるところです。第一,外に容易に出られませんし。出てもいいよっ,ていう周囲の雰囲気が少ないかもしれないし。出ても阻まれる場所が多いかもしれないし。
内部障害
●『内部障害』には,C型肝炎は含まれるのでしょうか?
●昔,ネフローゼという病気で,食事制限というか,塩分を控えるよう言われました。運動も小学校の間は止められてましたが,これも内部障害に入るのでしょうか?
●内部障害というのは,臓器とか見えない部分のことだと思うんですけど(勉強不足のせいだと思うんですが)障害というより,病気という印象を受けてしまいます。
→C型肝炎は違うのでは,と思いますが。ネフローゼなどの場合,就学期にある子どもの場合は一定条件を満たせば学校教育法に従って病弱児教育の対象児となることがあります。大人の場合は今回配布します身体障害者福祉法施行規則に従って,その法律における「障害者」になることがあります。具体的な決定は医師の作成する書類によって行われます。それから,労働関係ではそっちの方でまた違った取り決めがあり,サービスが受けられるかどうかが決まります。ふぅ。
じゃあ,いったいぜんたい,ボクは障害者なの? ってことについては,本当はいろいろモノの考えようがありますので,はっきりとは答えられない(としておこう)。もともと障害者・健常者という線引きは恣意的に作られているものだしね。
障害と病気の境についても,やはり「障害とは?」の問いに答えなければなりません。今回(第3回)はこのことを少し話しましょうね。
施設
●障害者の自立は自己決定するという選択の自由をもつという意味では重要だと思う。
しかし,障害者施設が全く必要ないかというと話は別で,そちらで生活するという選択もあるだろう。まずは,障害者を受け入れる社会的基盤(健常者の障害者に対する意識改革など)を築く必要があると思う。
●施設での生活がどのようなものなのかもっと知りたいと思う。
そこから出ることがどの位の“自立”になるのか知りたいので,かなりの苦労が必要であることは想像できるが,もっと具体的なものにしたいと思う。
→最近は地域福祉ばやりで施設の意義がよく論議されています(勉強しなきゃなあ)。また施設関係者もさまざまな努力を行い,新しい方向を模索しているところもあるようです。幾つかのトピックス・論点などもありますので,これについては別途紹介する時間を設けたいと思います。ただ難しいのは「施設ってどんなもの?」という問いに対して「こんなものだよ」と簡単に答えることが出来ないところです。もともと多様ではありますし,良いところもあればそうでないところもある。
障害者を受け入れる社会的基盤,という意見については賛成します。
自立,自立生活,などなど
●自立ということを考えると,果たして検査のためだけに病院に通院するのは自立でなくなるのだろうか。薬をもらうだけなのは自立なのだろうかということがあります。これは私もよくわからないことなのですが,この場合自立とはいえないのでしょうか。
→その人自身の意志・意思によるところなのではないでしょうか。これとこれをやったから自立,というものではないし。家族と同居していろいろあっても本人が自律的であれば自立,という意見もありますし。
●知恵遅れの人など脳に障害を持つ人に対してはまだ疑問があるが,態度などの様子から何がしたいのか周りの者が察することも必要であると思う。
→さまざまな理由により自分の意見を十分に発言できない人もいます。自立というのかどうなのか,私もまだここに書けるほど考えを深めているわけではありません。ただサポートを得ながらでも地域に根付いた充実した生活を送りたいという望みは変わらないはず。そのための具体的な試みもいろいろ見受けられるようになってきました。また本人を主体とする活動の保障・支援とか,また彼らに対するインフォームドコンセントのあり方だとかね。「知的障害者福祉論」の方でも触れていただけるかも。
●『自立生活』という言葉にはいろいろな意味があるんだな,と思った。でも経済的に自立して一人暮らししているような人でも,どこか人と助け合って生きているだろうから完璧な自立生活というものはないのかもしれないと思った。
→そういう意味では independent ではなく interdependent
だと言った人がいます。日本では「ささえあい」と訳す人もいたかな。このことについては介助論に続いて若干言及する予定(昨年はそうだった...)。
●“自己選択,自己決定”は,障害を持つと持たざるとにかかわらず,当然保障されるべきものであると思います。しかしっっ!! その選択項目,決定項目は,他者とのかかわり合いの中で,他者との関係性の中で,なされるものでなければおかしいんじゃないかな,と思うのです。なぜなら,人は一人で生きているのではないからです。
社会システムの構成要素の一つとして,自立する存在であることが,目指すべき“自立生活”なんじゃないかと思うのです。(でも,ともすれば,障害者の自己決定にこちらの都合を押し付けるようなことが往々にしてあるのかもしれないし,もしかしたら「保障する」という時点ですでにおしつけなのかもしれないと思ってしまいます。)
→上記の方のコメントと一緒にお応えしようと思ったのですが,そうでない部分も含まれていると思われます。特に後半はもう少し詳しい話を伺わないともうひとつ分からない。ごめん。そんなわけで,改めて個別に話しましょう。どうやらこの方とはその機会があるようですので...。
●(前略,自立生活は)けっこうお金がないとできないのではないかと思いました。障害基礎年金というものもありますが,経済的な問題から自立生活を営めない人もいるのでは,と思いました。
→障害基礎年金,生活保護などいろいろ活用してやっていこうという努力が行われます。金銭的なものと同時に大切なのは介助者の確保でしょう。これがちゃんと見込めないと困ったことになる。そのため,公的介護保障を要求する運動も以前より行われているところです。
●中村さんのコメントで,ボランティアを有給にするというのは,それによって確実で満足のいく援助が受けられるという点ではよいと思います。でも信頼で結ばれ,援助する側も求めないのなら中村さんは深く考えなくてもいいと思う。
『自立』でいけば,有給で雇って自分の意志どおりに生活できるのが,本当の(経済的にも)自立といえるのでしょうが…。
自立生活センター構想内では,生活することに重点が置かれているが,障害者自体が働くことについては触れてないので,働くことは無理と考えられているのかなと複雑な気分だ。職場でのインクルージョンについて勉強しているので,そういう援助就職についても触れてほしい。
→介助者との関係をどのように考えるのか,と言うことは昔から話題にされており,論文なども発表されています。有給ボランティアの考え方についても当然関わってくるわけで,昨年もこの件については意見がさまざまに提出されていました。本日はこの点についてまでは紹介したいと思っているのですが....。めじろ押しだなあ。
ところで自立生活センターでは働くことを無理とは考えているわけではありません。生活が業務のメインテーマであるから触れていないだけです。就労・労働についてはあまり触れられないと思いますが,多少の知識の蓄えはありますので,要望にしたがって今後幾らか扱うことにします。
●自立という意味のとらえ方が今回の講義で改められた。今までは健常者に近づくことが自立としてとらえていたからだ。
しかし,この私にとっての新たな自立の意味には疑問がある。例えば大学生に投資する親は,将来何らかの形で社会に貢献する活躍をすることを期待して行なわれているものであると思う。
生活保護を受けるにしても,何らかの役割を果たすことを義務として給付されるものととらえる。
重度の障害者が新たな意味での自立をすることを否定することはしないが大勢の人々の手や,国民の税金を使って(生活保護)生活しようとするのであれば,何らかの形で,社会に貢献する意欲と責任を持ち果たしてほしいと思っている。
健常者であっても,社会のシステムのしがらみや様々なストレスの中で自己決定,自己選択もできないこともかなり多くあるから…。
→きちんと応えるには荷が重いな。生活保護にはおっしゃるような意味合いがあるかもしれない。しかし,現状において障害のある人が労働するなり何なりの方法で社会に貢献しようと希望しても,それが果たされない環境が余りにも多いと思います。また社会に貢献するための行動というのも,通常我々の想定するような方法のみとは限らないのではないでしょうか。
もちろん,行政・政治的な側面からすれば,彼らにどの程度サービスや予算を配分するかというのは相対的な問題としてとらえられることもあり,その中では障害者側の主張が
●日本でも,というかすぐちかくに障害者の方が一人で自立して生活し,それをサポートするボランティアのシステムがあることに驚きました。40から50人ほどの人がローテーションで泊りに行っているそうですが。どの程度の介助を行っているのかもし知っていたら教えてください。とても興味があります。
→この件については次回。ごめん。
自立生活センター
●茨城にもJIL加盟団体ができるといいのになと思います。そのときは,すでに加盟している団体に負けないくらいおもしろい名前をつけてください。
●つくばに自立生活を手助けする団体ができたなら,つくばの学生全体も介助に対する意識も高まって良いと思う。自分も何かしら手伝ってみたい。
●ただ,今まで健常者の中に点として存在していた障害者が,集まって面として存在しようとするときに反発とかいった負の作用は働くと思います。それを小さくするために,もっと人々に考えを浸透させていくことが大切と思います。
●今回センターのお話で,当事者主体のお話をされましたが,やはり健常者には分からないこと,どこかで共有できない何かがあると思うのでいいことだと思いました。
●自立センターの具体的な活動内容をもっと知りたいと思った。自分の住む地域もJILに加盟していたことをはじめて知り,一般にはあまり広く知られていないのかなと思った。
→やろうとしている本人に伝えておきます。みなさん,よろしく。
障害のある人とのかかわり
●前回の質問で『すみません』と『ありがとう』ということについて更に広い意味のことですが,私の経験上そうなのですが,その人が障害者とわかると,途端に敬語を使い,くずれた言葉が使いにくく感じる人が多くいるように思います。これに対して他に障害を持つ人と関わったことのある人で経験が有ればお願いします(もちろん関わってない側からの意見もぜひとも)。
→どうぞご意見お願いいたします。
●障害者の人を見たときに,何か手伝ってあげた方がいいんじゃないかと思う反面,手伝ったらせっかく自立しようとしているのに迷惑なのではないかとも思ってしまう。
●身内に内部障害と肢体不自由の人がいます。それでも身体障害の方にどのように接してよいかわからないでいます。障害の状況を聞いて気分を害してもいけないのではないかと思ったりするのです。この授業を聞くことで,私の側から勝手に作り上げてしまったカベを取り除けたらいいと考えています。
●自分自身の中に“障害”自体や,“障害者”に対するおそれがないといえばうそになります。けれど,それと同時に,私にはわからない世界をみつめる人たちにあこがれや尊敬の念もあるのです。こんな気持ちがあるかぎり,私は“障害”という概念に完全に支配されることはないと思うし,友だちになっていけると思っています。
→ごめん,これについても時間切れです。ご意見ある方がいらっしゃればお願いします。