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回答:第3回
今年度は授業準備を前日夜中あるいは当日早朝に始めるスケジュールになりました。昨年よりは限られた時間の中で行うところから,十分な返答にならないこともあるやもしれませんが,ご容赦ください。このような,返答を返す作業というのは私にとっては楽しい作業のひとつです。しかしやらなければならない業務などとの葛藤もあるなあ。
例によってきちんと応えられなかった方,ごめんなさい。
なお,皆さんのコメントの打込みですが,今年はメインとして人間学類4年の方,サブとして3年の方にやっていただいています。ありがとう。
【別表5の関連,身体障害者手帳】
●障害程度等級の法律は中途障害(?)(中途失明や中途失聴など)者のことが考慮されていないと思う。今まで生きてきた社会スキルと違った社会スキルを身に付ける必要もあるし、先天性と比べて『受容』までの道程が大変だと思うけど……。
●身体障害者障害程度等級表について、障害に程度や等級を付けられるのだろうかと感じた。付けないとサービス提供の度合いを決められないから仕方なく、という面もあるかもしれないが……。『障害とは?』という問題に関して、イコール個性という考え方にも共感できるが、人間のくくり方の一つであるとも考えられるのではないだろうか。男・女・学生・積極的・高齢者とかの枠(はっきりしているものも曖昧なものもあるが)の一つに障害者というのがあるのかも、と感じた。
●障害程度の等級を手帳で表すメリット、デメリットについてもう少し詳しく教えて下さい。また、できれば諸外国(とくに北欧などの福祉先進国)の様子が知りたいです。(あまり知らないとおっしゃっていましたが……)
●手帳の件、アメリカでは自主申告ということなのでしょうか? 日本でこのような方法をとったら、混乱が起こって大変でしょうね。(私も含め)障害のある方への接し方が分からない人が多そうですから。
→いえ,手帳自体が無いということです。サービスを受けたい人がそのサービスを請求する,ということではあるけれども,手続きに手帳が介在しない仕組みで行っているという。
手帳のメリットとしては,さっと差し出せば割引などが受けられるという手軽さでしょうか(尤も,割引制度ってどのくらいの国で行われているのだろう?)。デメリットとしては,手帳が障害のシンボルになってしまうということかな。また,手帳の所持すなわち「障害」と思われてしまうところも困ったものだと思う。
●日本の手帳・等級による分類のようなものは、Impairment
の分類に偏り過ぎているようにも感じた。Handicapの
方からのアプローチは法的には成されないのだろうか?
→具体的にはどんなものが相当するのかがよくわかりませんが...? ただ,Impairment
に偏りすぎ,という意見は理解できます。
●法的に認められる(手帳をもらう)ことが大変なことである、という話を聞いたことがあります。その時の対象は生活保護(精神障害者に対する)でした。来週は介助論ということなので、制度についての不備などがあったら聞きたいです。
→ちょっと話は違うんですよ,今回は(^^;;;
幾らかコメントはつけられるけど。
●前で同時手話通訳をしていた人はすごいと思った。生で見たのははじめてです。障害者手帳ってどんな時に使うのですか?
→サービスをして欲しいとき,担当者に提示します。例えばJRの割引切符を買うときとか。
●障害程度の等級について、やはり、その認定を行うのは自己申告によるのでしょうか?
障害の重い人は目に見える分、周囲からの■き(読めない...)があると思いますが、軽い人、と障害が外部に見えない人には、その認定を受けたくない人もいると思うのですが……。
→基本的に自己申告です。ですから取りたくない人は取らないでいます。とる人,とらない人はそれぞれの事情のなかで判断しているのだと思います。ただし,手帳は行政サービスを受けるための障害認定であり,障害者であるか否かは手帳の所持とは別次元で決まる(決められる)ものだと思いますが。
●障害者手帳を見せてもらったことがあります。みんなでワイワイ見せ合ってて、私は大学にくるまで見たことはなかったけれど、『障害をもっている』と認識をもっている人達にとってはすごく身近なものなんだなと思いました。写真(小さい頃の)がはってあり、出身地ごとに色が違ってたりして、見せてもらって楽しかったです。保障されるべきことが多いのは確かだけど、もっと気楽に付き合っていい時もあると思います。(こんな風に接しなければならないとかいう気負いをせずにという意味。)
→そうですね。そういうもんだと思う。ね,ね,運転免許証見せて。わー,写真映り悪いねー,みたいな。
もちろん,そうでない人もいるかもしれないけどね。
●法律や制度でなんでも型にはめてしまう日本のやり方は問題が多い。例えば、脳腫瘍で痴呆症状を呈した50歳の男性(幼児2人と妻の4人暮し)が、四六時中目が離せない状態(例えば、徘徊しどこかにいってしまう。火遊びをする。放尿をする。)で、介護者が妻だけ。サポーターはだれもいない人が受ける福祉サービスは現在ないがために、家崩壊状態である。そのような福祉適応の溝にある人達はどうすればよいのか。その人を見て判断してほしい。そのようなシステムになってほしい。
→お金などが絡んでくると,どこかに分類・はめ込みをやることになるのでしょうね。介護制度なども然り。現在いろいろと議論が行われていますね。身体障害福祉という私の受け持ち範囲(各論)とはちょっとずれるのでどうしようかと思いますが,いずれにせよ後半はもうちょっとこれに近い地域福祉的な話になっていく予定ですので,改めてご意見お寄せください。
【WHOの分類】
●WHOの障害の分類は各国の基準(標準認識)になっているのでしょうか?
→詳しい方にメールで伺ってみました。基準あるいは標準認識ということにはなっていないと思う,とのことでした。以下引用しますと,
『ただ,国際的な共通の基準づくりを目指すという意義はあると思います。また,障害分類ICIDH(WHOの分類のことです;名川註)が障害関係の注目を浴びているのは,共通のものはこれしかない,という意識でしょう。』
実際,この分類試案は多くの国で訳されています。各国で関連会議が開催され,また日本でもさまざまな学会や各種活動の中にこの分類試案の考え方が活用されています。
詳細は以下の書籍が詳しい。
佐藤久夫:障害構造論入門.青木書店,1992.
●WHOの分類における handicap
は周辺の努力で改善があるという。今後の課題として先生は、物理的・制度的・心理的改善の3点を挙げたが、私は心理的改善が先決であると思う。と言っても、『さぁ改善しよう』といってすぐに変わるものではない。観念的なことはとくに変えることは困難である。でも心理的なところから入らなければ、物理的にも制度的にも変化は見られないだろう。私は普段生活していく中で、障害という問題に触れることがないことをつくづく感じる。漠然とこの方面に関心があっても、この授業を取らなければ、深く考えてみることも、行動に移ることもなかっただろう。世の中にはそういう人が多いのではないか。関心はあっても考えたり触れたりする機会がない人が……。もっと一般的な問題として社会に浸透させることが、心理的改善の第一歩にあるのではないだろうか。
→私が3点を挙げた,とありますね。情報の領域でも改善は必要なのですが,どこに入るかな。補足しておきます。
ところで心理的な問題については,ある社会福祉学者が,もっとも遅れていてもっとも改善を必要とする分野だと指摘していたそうです。しかし困難な課題でもあります。前回の質疑応答でもあったように,障害のある人がどこにでもいて普通である社会が出来れば良いのですが。それぞれみんなが話題にするなり行動するなりしていかなければ。
【佐々木の定義の関連】
●最後のほうであった『障害とは選択肢の幅が狭められている状態』ということは、私も考えていたことでした。障害児の教育において早期教育が大切なのも、この考えの下に、子どもの選択肢の幅を広げるということからだと思います。その選択肢の中からどれを選ぶかは個人の自由だし、構わないのですが、選択肢が少ない状態の中で閉じこもることがないよう、できるだけ選択の世界を広げていくことが大切だと最近感じています。
→教育的なリハビリテーションということなのかもしれません。
●リハビリの定義(佐々木先生の)はいいが、(特殊学校などにおいては)子供のときはまだ障害について十分に認識していないために、両親や先生の独断(ちょっといいすぎかもしれないが)で一方的に訓練されているようにも思えますが……
●『障害−選択肢の幅が狭められている状態』これにはハッとさせられた。こう言われると、もう障害者とそうでない人との区別の線というのが引かれないのではないだろうか。自分は今まで、やはり区別してとらえ、それに対してカバーできるところをカバーしていこうと考えていたが、考えさせられるところがあった。
●障害とは『選択の幅が狭られている状態』であるという佐々木先生の定義について、うまく言い当てているなと思うと同時に、じゃぁその状態が改善されるにはどうすればいいのかと考えてしまいました。いかにして『選択の幅が広げられている状態』にするか、これに関しては、リハビリテーションなどで改善できると思うのですが、この『られている』という受け身の状態から本人が能動的に自己選択や自己決定をすることへの援助は必要ないのでしょうか? どんな決定であっても、『本人が選択する』ことにのみ意味があるとはどうしても思えないのです。自閉症の人達などの、言行一致の困難な方への『自己決定を下すときの援助とその後のケア』について、どのような意見をお持ちですか?
→私は選択肢を広げる援助についてはどちらかというと周囲の環境なり制度なりを工夫することによって提供していこうとする態度を持っています。これが前半部分に対する応え。
後半についてですが,それなりの援助をすることも必要でしょう。どのような援助をすればよいかについては私の範囲を越えますのでよく分かりませんが。ただ,久田則夫氏(ご存知かもしれませんね〜)が重度の障害をもつ人への自己決定を保障するためにはどのようにしたら良いかを書いた文章がありますので,紹介します。
『この点について,リズ・ソープ氏は,実際には日常の介護場面では高度の知的判断を要する事柄は少なく,多くの場面でちょっとした工夫があれば本人の意志を確認できるとしています。第1章で挙げたイギリスのホステルの例のように,食事などの場面であれば,実際に食事を見せる,写真を見せるなどの方法が考えられます。大切なのは.....(以下事例など)』(久田,1996;179-180)
そして彼はこの件に関する原則を幾つか示しているのですが,それは略します。
久田氏はいろいろやってみれば重度な知的障害の人であってもインフォームドコンセントは可能なのではないだろうか,と努力している方ですので,上記のような回答となります。しかしながら,具体的な場面を考えると「そうとばかりも言っていられない」との意見も出てくるでしょう。私もそうだろうとは思います。特定の意思を知ることが出来ないとか,意思確認に再現性がないとか....。その時に,じゃあ周囲環境からどのように工夫できるかを考えたり,あるいは本人の意思表出行為をどのようにサポートするかを考えていくことになるのでしょうね。
個人的な意見としては,1)周囲・本人双方とも考慮する必要がある,2)考えすぎるとマズイかもしれない,と感じています。あまり言い触らして欲しくないですが(^^;;;
久田則夫:施設職員実践マニュアル.学苑社,1996.
##ところで,この佐々木氏の定義について,ある方から以下のような指摘を受けました。すなわち,『選択肢の幅の点から定義しようとする方法は興味深い。しかし障害の原因についてなんら問わないとすると,定義の指し示すもの(外延,といいましょうか)が広くなりすぎてしまい,本来の障害の枠が消失してしまう。例えばある団体(DPIというのですが)の提出した定義も同様の問題点を持っていて,発展途上国の人たちもこの定義の範疇に含まれてしまうと批判をされた。(以上,カッコ内は名川の註)』
ご指摘ごもっともであり,訂正したいと思います。ただし,本定義提案者の佐々木氏自身はおそらく障害原因の限定を意識していたのではないかと思います。名川が紹介するときに不十分な説明をしてしまったということではないかと。
【一般】
●つくばに引っ越してからよく感じたことは、道に段差が多く、自転車で走りにくいことだった。こういう段差はいくらでも改善できると思う。
●回答に出てきた用語で、TAB(Temporary Abled
Body)の意味がよく分かりませんでした。
→直訳すれば「一時的に障害のない身体」ということです。私たちの一生を考えるとき,他者からの介助を必要としないでも何とかやっていられる時期はそう多くはありません。子どもの時は親の庇護のもとで育ち,いろいろ世話を焼かれ,そして大きくなったと思ったら老化が始まる。介護から始まって介護で終わります。そのうえ,私たちはある確率でアクシデントに見舞われて
impairment を生じるわけです。つまり全くの able
でいられるのは一部でしかないということを,この語は言いたいのではないでしょうか。つまり「able
なんて temporary なもんさ」という。
●『障害』ということばについて。この障害の『害』ということばは害があるということで、変えようという動きがあると聞いています。確か、漢字をまず変えたそうですが、僕は知らないので、もし知っていたら教えて下さい。
→裏をきちんととっていないのですが。もともと「障碍」という語が使われていた。ところが或る時期に当用漢字だか常用漢字だかの決まりが出来て「碍」の字はそれに含まれなかった。そのために代替語として「害」が使われるようになった,ということのようです。そして最近ではおっしゃるように害の字の弊害を考慮して「碍」を使っていこうとする人もいるということです。この話はもっと展開がありまして,例えば人によっては漢字を止めて「しょうがい」と記したらどうかという人もいる。またこれとは違う用語を提唱する人もいますが,それについては時間がないので略します。
●上肢と下肢の障害についての話で、上肢に障害がある人より、下肢に障害がある人のほうが就職に有利だという話がありましたが、上肢に障害があるひとは具体的にどの様な職場でどのような仕事をしているのか知りたいです。
→うーーん,就職に有利かどうかは知りません。言い方が難しいな。想定される職種が限られているようです。ただ私が伝え聞く限定された範囲内では,行政などの意思決定機関のブレインとして働いたり,コンピュータ操作やプログラマー・SEをやる人とか。あと,創造的な仕事に就いている人。もちろん,一般事務として就職できないというわけでもなく,例えば足で他者とほぼ変わりなく事務処理をできる人はいるわけですし。応えになってないなあ。
●視覚や聴覚を手にいれることは無理かも知れませんが、肢や指などを脳死の人からもらって移植するのは無理ですか?
→?? どうでしょうね。角膜とかの話じゃなくて? 例えば手指ですと自分の足指を移植する手術というのもあります。その時はコスメティックな(外見的に美しい)目的というよりも,より機能的な目的で行われることが多いようです。ですから,親指のように対立指を形成することがあるのだとか。ある整形外科医の講演での話でした。
●私は障害者施設に興味を持っています。心理専攻ですが、できれば心障方面の仕事に就きたいと思っています。そこでぜひ施設の話を詳しくしてほしいです。去年個人的にデイケアセンターを訪問したときはとても強烈というかショックを受けました。それまでそんな積極的に接したことがなかったので……。
●自立であるとか、障害のある人とのかかわりであるとか、この講義を受けてみて、また、自分なりに考えてみて、健常者であっても、子供を育てることであるとか、友人とのかかわりであるとか、全てに通じるというか、全部いっしょなのだなぁと思いました。(障害程度の認定であるとか、サービスのことなどの話を聞いていて、ふと、現代の社会の農家保護と根本は一緒だなぁなんて考えてしまいました。
→この話,個人的には面白いです。特に農家保護と通じるところがあるなんて話は...
【その他】
●前回の感想の紙のことですが、自分は書き終わるのが遅かったので、先生が帰ってしまいました。書くのが遅い自分が悪いとは思いますが、ひとこと何か言ってくれてもいいのではないでしょうか? それと教室が暑い。
→いつもぐるっと見回して「もういい?」と言って帰るんですが。ちいさい声だったりしますからね。
●『その』『あの』が多くて、自分の中でまとめようとしたときに少し分かりにくい感じもした。
→あ,癖が出てきた。高齢になったらもっと進むんではないかと危惧してるんです。わからないと言っていただけるとありがたいです。
●心障の授業は1年のときにも少し取っていたけれど、結構きっちりした講義っぽいのはあまりなかったので、ノートが大変です。まとまらない……。
→ノートは自分で考えながらとっていただけると嬉しい。ある程度自分で噛んだものを。どちらかというと,授業では考えてもらうネタを提供するつもりでやっています。それに提供するネタは正解が無いものも多いでしょ?
●ホームページに関してですが、今回の講義でやったことも是非早急に載せてほしいと思います。この質問と回答のページは、学生がどういうこと考え、どういうことを疑問にしているかが良く分かると思います。多分インターネットは大体の人が見れると思いますので、学情や各学類の端末室でぜひとも多くの人が見ていたら、思うのですが……。(もちろん、この授業をとっていない人、障害等に無縁の人も。)
→出来ればやりたいのですが,時間的にどうしても無理です。2学期の授業が終わってからおもむろに作業せざるを得ない。
あの,ホームページ掲載作業を手伝っていただけません? そしたらやります。バイトにしていいですから...m(_
_;)m
【前回の質問について:言葉遣いなど】
第2回のプリントにおいて「障害のある人との関り」というコーナーを設けて意見を募りましたところ,次のような方々のコメントを頂きました。紹介します。
●前回のプリントの、障害のある人とのかかわりの2番目の意見について私の意見を。確かにそれはあると思います。障害を持っている人いない人で、つくりがちですが、ヒトであることは同じですから、欲求というものを持っています。やはり欲求が阻害されれば、迷惑なのは確かです。やはり友人関係とかと同じで、付き合っていくうちに、お互いに分かり合える面はあると思います。
●ことばづかいのことについてです。私は『友人』から『介助者と被介護者』という関係になったのですが、態度もことばづかいも友人時代のものと同様になっています。だから急に敬語を使うというようなことはありませんでした。むしろ私が気になるのは、被介護者のことばづかいで、『……してもらっていいですか?』という頼み方を時々されます。『……しろ』ではちょっとむっとしますが、このように頼まれると、『おいおいそこまで……』という気がします。その方が頼みやすいのかも知れませんが、ほかの被介護者はどのように頼んでいるのでしょうか?
中村氏からのコメント
宿題にさせてもらっていた,「障害者に対するサービス」についての件ですが,中村氏よりコメントを頂くことが出来ました。以下に紹介します。
■障害に対する考え方、「障害者に対するサービス」について
僕は「障害は個性と考えている」と書きましたが、違う人は「周りに障害が作られているから『障害者』が作られている」と言っています。
駅には階段があり、バスに乗るには高いステップを上らなければならず、喫茶店に入るにしても車椅子の上りにくい高さの段差がある店がほとんどです。
階段でしか到達できない店も多々あります。そういう店には「行ってやらない」ということで、街を歩いている時の「ちょっと休憩」な店の選択ぐらいのシチュエーションでは範疇から除いてしまいます。(とはいえ、「フルフル」にはしばしば行きますが。)
そのようなハード面の「バリア」は、店員や周りの人に手伝ってもらえばクリアできることなので、その「バリア」(小段差の平坦化など)は、「やれるならやろうよ」ということで、チェックを入れるべき事だと思います。
それ以外の生活行動(食事・排泄など)に関しての介助の場面では、介助をする人が真っ向に介助される人と向き合うことになります。
例えば、食事の時は口からよく物をこぼしてしまったり、しばしばむせたりしたり、とても作法が良い悪いというレベルではありません。(笑)それを「この人はこういう食べ方なんだ」と認めた上で、皆さん食べさせてくれるわけです。(よね?)
お出かけの際にも、移動の際の諸々のサポート、食事のサポートがいやおうなしに付随してくるわけです。
これらに関しては、個性と見てもらった方が、お互い気兼ねなくつき合えるんですよね。
話が脱線してしまいましたが、一応上のをふまえておいて、「サービス」について。
先日全学停電があった時、研究室の人々と筑波を脱出して蔵王に1泊2日行ってきました。その時ロープウェイを利用したのですが、階段だらけで結構大変でした。少人数で別行動をしていた時なので、階段を上り下りする際には駅員が手伝ってくれました。
その後に先輩が言うには、「駅や飛行機の中では安全を保つ責任があり、その責任を全うするには素人には手を出してほしくないから、駅員などが全面的に手伝ってくれる。」ということです。「なるほど」と思い、一つ考え方が変わりました。
ディズニーランドの「別ルート優先入場」も、そのポリシーからだろうという考えでまとまりました。
ところで、ここまで書いて僕にも疑問が残っています。障害者割引の根拠はどこにあるのでしょうか。僕は「わからんけど得だから使っちゃえ」という気持ちで使っているのですが。(笑)
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「話したい」と書いてくれた人からの連絡が、一向になくて寂しいです。
紙の上で語り過ぎて、それで満足されちゃってるのかなぁ。(笑)
では また。
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