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回答:第4回
前回の回答中にも書きましたが,この回答集のホームページ掲載作業について手伝ってくれる方,いましたら名川までお願いします。やり方は知らなくてもいいです。こちらで教えますので。
10月16日(木)18時30分より1C210教室において,将来的に地域での生活を目指している方(脳性まひの障害がある)が講演(?)をしてくださるそうです。現在は入所施設で暮らしていますが,地域へ出るためにはまだまだ課題が多いとか。興味のある方はどうぞお越しください(と宣伝をしておけと主催者に言われました)。よろしくお願いします。
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先ずは単発としてお応えできるものから行きます。
●先生の授業は,時の流れるのがとても早く感じます。内容に集中していたからか,はたまた先生の来られるのが遅かったからか‥。
→うっ,遅刻するのが指摘されてしまった...どうもねえ,印刷って時間がかかりますねえ(と言い訳)。
●保護主義とはなんですか?
→パターナリズム(paternalism)という意味合いと同じように用いていたかと思います。悪しき保護主義,と言う呼び方で。そこで,以下にパターナリズムの方を研究社新英和中辞典第6版で引いてみました。
pa・ter・nal・ism
《名》[U] (国民・従業員などに対する)父親的態度, 家父長主義
(父親的温情を示すが, 権威・責任は崩さない態度・主義)
崩して言えば,「俺に任せておけばいい,世話してやるから,勝手な真似をするんじゃない」に代表される態度だと思います。このような態度が病院・施設・その他で見られたので,現在ではインフォームドコンセントですとか,「やさしい病院」ですとか,利用者中心サービスなどの考えが広まるようになってきたということですよね。
●介助トラブルに関して,全国でどれくらい,そしてどのようのものが**(?)されているのか,データがありましたら,教えてください。
→直接応えるものではありませんが,大学院生が行っている研究から,関連する表を見つけましたので配布します。本当なら彼に直接来てもらって話して欲しかったのですが,あいにく金曜4限はダメなんだそうです。
●町中や近所でみかけた障害者を介助するほうがもっと難しいと思う。車イスの人を手伝おうとして,気を使って怒られたことがある。よくバイト先に食べに来る目の見えない女性は男性が手を引こうとすると激しく手を振り払う。そうやってだんだんと障害者に接するのは難しいのだと思いこんでしまう。
→それは残念な経験でしたね。しかし一般的にも他者との出会いというのはよっぽど選んでかかるのでなければ,アタリ1,ハズレ2のような感じだと思いませんか。「介助」というカタチの出会いというのも,その中のひとつであるに過ぎないと思うのですが...。それにお分かりと思いますが,障害者は介助を受けて然るべき対象としてそこに生活しているわけでもありませんし,やっぱりいろいろです。
回を改めて触れるつもりですが,障害者と同じように通常付き合いの無い人,例えば外国人ですとかどこかの業界の人ですとか(私の場合だとチーマーもそうだな),そういう集団を想定してみてください。付き合うのにけっこう骨が折れたりしませんか。
●有料介助者派遣サービスが現在の日本にはどの程度あり,どのようなシステム,制度をとられているかということも次回話の中で教えて下さい。
→むむぅ。広すぎてわからないです。
●黒板の「関係性構築の対処〇〇〇類」の〇〇〇がなんて書いてあるのかわかりませんでした。よかったら教えてください。
→「方略分類」です。字が汚かったね(^-^;;;;。
さて,今回はすべて介助関係のひとつの考え方として紹介した,岡原(1990)に端を発してのいろんなリアクションでありました。幾らか話したのですが,みなさんのコメントの中で@ABというのが出てきて分かりにくくなっています。そこで,特にこの番号が何を表していたか,のみ再掲しておきます。
岡原(1990)による関係性構築の対処方略分類(p.130)
@理念的方法
A経済的方法
B感情的方法
#岡原正幸(1990)コンフリクトへの自由−介助関係の構築.
これは,安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也:「生の技法 増補改訂版」藤原書店,1995(初版1990)の第5章です。
以下,一応コメントをグループにしてありますが,あくまでも見やすさのためです。本当はどこに入れればいいのかわからないものが多かった。
【疑問・反対(かな?)】
●今日は介助の上でのトラブルとその対処方法についての講義だったが,黒板に3つ書かれた中で3以外は少し疑問と反感を抱いた。いくらお金で雇った仕事としての介助であるにしても,その対象は人間である。介助不介在での状態での介助,問題を見過ごしたりするような介助には背筋の凍る思いがする。何も介助に限ったことではない。日常の人間関係において,またはその他の接客業において,1,2の方法はどのようなメリットがあるというのだろう。きれいごとかもしれないが,信頼とか愛情のない介助は存在しないと思う。
→そうですね。人を相手にする以上,機械と同じように扱われてはたまりません。その意味ではいずれの関係にも人としての結びつきはあると思います。そして講義でも言ったように,実際には2つあるいは3つが混在している場合も多いのではないかと思います。
●今日の内容,介助するものと介助されるものとの関係性は,「気付いているけど,気付かないふり」をしていれば一番つつがなく進むものだと思います。親子関係ですらうまく結べないなどと叫ばれているこの時世にあって,ほんとうにつつがない介助関係など存在しないのではないかとすら思います。
なにもわざわざ体系化して,気付いていない人に認識させなくてもと,思ってしまいますが,それを乗り越えてこその真の人間関係,介護関係なんですよね。
→えーと,これも「寝た子を起こすな論」なのかなあ。ただ,あなたも書かれているように,自分たちの関係について気付かないままに付き合っている人も多いでしょう。そして,何故にわざわざ議論に持ち込んでいくのか,についてもお分かりのようですね。これ以上言わなくとも良いかな。
【賛意(かな?)】
●ボランテイアで介助する人は,何となく全能で,相手のことをよく理解できているのだと思っていました。(つまり,互いに感情を深め合っている状況である‥‥,と。)
大好きな人でも24時間一緒にいて介助をしなければいけないのだと思うと嫌になるのも当然でしょう。
→全能って,そんなことないですよぉ(^o^;;
どっちかっていうと,答えなど出さない・出さないままにやっている人なんじゃないのかなあ。後半の方は,まあ,個人的な問題だからいろいろだということで。下の方のコメントと関連してきますね。
●介助,非介助の関係を雇用・非雇用関係にしてしまうのが「せちがらい」ことだとは思わない。介助関係→友情の流れはありそうな話で,当然あるものだと思うけど友人関係,夫婦など→介助も,というのは,ありそうな話で,でもうまくいくのかなと疑いたくなる。介助する側が,介助するということに意識が向いていて,感情的な気まずさより介助関係の改善を選ぶためには,多少の距離があったほうがいいと思う。
●私は感情的方法よりも,経済的方法を発展させるほうが成り立っていくと思います。病気をして入院すれば看護婦(夫)が付き添うように,障害を持って生活するために介助者が雇われるのは当然だと思います。
日本人の特性なのかもしれないと感じるのですが,感情が先にたって,制度など現実的なことは遅れがちなのではないでしょうか。
最近,朝日新聞で「命ながき時代に」(まちがっているかも)という連載をしています。老いた父母の介助にほとんどをささげてしまっている人を知って,これではひどいと思いました。jobとして介助が確立すればと感じました。
→福祉というのはシステムなのだと思います。もちろん「福祉的な心」というのは必要不可欠なものですが,それだけで済まないことがあるからこそ,システムとして如何に体系的に確立していくか,が問題になる。「熱いハートと冷たい頭」のようなことは時折耳にしますが(出典はさておき),同様に「助け合いの心・関係」と「助け合いシステムの安定供給」の双方が必要なのであり,どちらも考えていかなければならないのですよね。私はこれまでも,そしてこれからの講義の中でもいろいろな話をしますが,いつもどちらも大事だと思ってやっています。そして受講しているみなさんにも,両方の意義を理解していただきたいのです。
●介護論に関してはいろいろ共感するところがありました。中村彰さんやH紋の会のS氏と今まで付き合ってきた中で,自分なりに考えるところはあります。介助者としての立場と友人としての立場の両方をもち,状況により使い分けているような気がします。
→これが実際のところなんだろうな,と思います。
【難しいなあ】
●介助については難しいと思う。感情的に深く入りすぎたらそれはそれで重すぎる気がするし,契約と割り切ってしまうのも無理がある気がする。理想としては感情的方法がようと思うが,気があうかどうかはしばらくやってみないとわからないので,やってみてからやっぱりできません,やめます,という事になってしまうこともあると思う。とにかくやったこともないし,難しいなあ。
→水に浮くのも,朝起きてから親におはようを言うのも,それに伴うリスクや方法論を考えていくと,実は取っても難しいのかもしれません(例がちょっと不適切?)
●今回の講義の内容はこわかったですけど,この講義をきく前から,介助というとこんなことばかり考えてしまうのでこわいです。
介助に興味はあるんですけど,頭でこわいことばっかり考えてしまうので行動にうつれません。こんなにこわいことばかりじゃないよ,というのも頭ではわかってるつもりですが,気持ちの上ではそう思えないようです。どうか,私が介助に対して前向きなイメージが持てるような話も楽しみにしています。
→ちょっと今回(第5回)はお気に召していただけるかもしれない(^-^)
●介助はやろうと思ってすぐにできることではないのだな,というか介助をしていく上で,される側とのトラブルが生じることもあって,介助の大変さに加えて人間関係の上での難しさもあるのだと思った。介助をはじめてからトラブルが生じないように前もって考えておかなくてはならないのかと思う。
→今回の介助論のような話をすることで,介助をやったことの無い人に警戒させるというのは良くないのかもしれません。しかしトラブルは人間関係が出来る以上は当然有り得ることですから,きちんと整理するのは悪いことではないと考えて紹介しました。他の人のコメントにもあるように,既にやっている人にとっては,むしろ自然な関係であることも多いのですから。
●感情的方法によって関係をつくり保っていくのはいちばん理想だと思います。でも今の私では,そこまで感情を持っていく前に自分で自分の中に障害者に対する壁をつくってしまっているのでこの関係がつくれないと思うんです。介助をやりたいと思うけどできないのもここに理由があります。今の私では,逆に恩着せがましい(いわゆる「やってあげる」)介助になってしまうと思います。私の周りにもそういっていた人がいます。このような人たちにとって経済的方法による関係づくりは,心の中の壁を少しでも取りのぞけるのではないかとふと思いました。ほんとうは私の心が大人になって,偏見も壁も何もない心になれたらいいのですが。
→介助で「やってあげる」感が強くなってしまいそうだ,と心配しているあなたへ
第1回分の回答(名川分)に以下のようなことを書いておいたのを思い出してください(読み返してください)。
『ところで,この話題(ありがとうとすいません)について事前に中村氏と話していたときには,実は彼が「ありがとう」を言った(メッセージを送った)ことの方に焦点を当てようと目論んでいました。彼は介助を受けるけど,でもありがとうを返すことで手伝ってくれた人たちに気持ち良い体験を提供した。「そんな気持ち良さを分けるってことが私に出来ることのひとつなのかもしれない」と。
通りすがりなどに手を貸して「ありがとう」と言われてみるとわかるのですが,自分の中に「やってあげている」以外の気持ちもあったんだな,と気づくのではないかと思います。あ,嬉しい気持ちを分けてもらえてるんだなあ,というような。』
●私は障害者と接するとき,どうしても優越感が生まれてくる気がします。雇用関係になってしまえば気が楽なのですが,気持ちの中では個々のつながりを求めています。つまり,今日挙げられた@〜B全てを内在しながらの関係になってしまいます。@の考え方を完全に否定しきれない自分がいます。この様な人間は珍しいのでしょうか。
→できれば直接に会ってお話ししたいものです。あなたのような人が珍しいからではなく,私も昔(高校から大学前半)は同じように感じていた(かもしれない)からです。大丈夫だよ,と言うのでもなく,そうだねぇ,と話を聞かせてもらいたい,そんなところ。
【もっと自然に行こうよ】
●私は中村彰さんの介助をやっています。もう2年半になりますが,今まで1度も介助関係について考えることはありませんでした。何というか,まあ自然な先輩後輩関係(彰さんはサークルのOBでもあったので)で,彰さんの話は話題が豊富で面白く,相談もでき,また一緒に介助する人も魅力的な人が多く楽しいので続けてきました。最近では,不満に思うことがあると,彰さんに伝えますが,そうすると,彰さんも自分の考えを言ってくれるし,介助に対する彰さんの不満等も聞かせてくれます。
私自身の介助経験は彰さんの所だけですが,今の自分には人間的,感情的関係以外はどうにもイメージできません。
●介助っていうのも仕事の一つだと思う。教師と生徒とか,看護婦さんと患者とか,保母さんとか,施設の職員でも,そんなんじゃなくても,逆に人間関係が結べなくても,人間関係を気にしなくても,仕事になることの方が少ないんではないだろうか。
仕事だ,ボランティアだ,身内だ,友達だって区切るんじゃなくて,関わる人が苦痛を感じずにやっていけるんなら,なんだっていいんじゃないかと思う。
→そう思います。
●今回話されたことは,障害者との関係のみに限らず,自分たちのような障害を持ってない人どうしでも存在すると感じた。自分たちは,ある程度,人との関係に頼らずとも生きていけるが,障害者(全身性)の人々は,まわりに頼らないと生活できないというハンデを負っているという点で違うだけであると思うので,自分たちの関係のように考えることはできないのでしょうか。
→それが実感できればオッケー,なわけです(^-^)(^-^)
●私は現在,有償のボランテイア(?)と無償のボランテイアの両方をやっているが,別に有償だからどうとか気持ちには違いはない(私の場合)。特に人間関係が‥とかお金の問題が‥と今までやってきた中で深く考えたことはなかったので今回の話を聞いてそういう考え方もあるなあと思う反面,そんなに難しく考えなくてもできる気がするなあとも思った。
→例えば公的に制度として介助を作っていこうとするときに,どうしようかという話になるのでしょう。個人レベルでは介助論不要のことはあって良いのかもしれません。人さまざま。
●「やってやる」「やってもらっている」という感情が互いにおこっていると長続きしない。互いに空気のような存在であったり,当事者も介助者に何らかのサポートをおこなっている相互のサポート関係がないと長く続くことはできないと思う。それは,私たちの友人関係,恋人関係を続けることと等しい。
慣れた一人の人と関係を続けていきたいと思い,上記の関係が成り立たないのであれば,有償ボランテイア制度をとってもいいと思う。
【その他】
●介助するときのトラブルは,何かしらあると思うが,それでギスギスした関係になるよりは,互いにわかり合っていけるような方向へ向かっていくことが大事だと思う。
普通の日常生活でも,人間関係は複雑だから介護者との人間関係も複雑だと思う。
→同感。
●介助については,人間なんだから起こって当たり前の問題だなあと感じました。健常者であっても人間関係はむずかしいのに,ましてあまり人に知られたくなかったり,見られたくない部分にも介助が必要であるのだから何かがあっても仕方ない気がする。いちばん良いのは,感情的な関係かなあと思う。
介助について私自身やりたいと思っても一歩が踏み出せず,未知の世界です。問題についても,イメージはできますが,対処となると何ともいえません。障害者,健常者にかかわらず,個人々の付き合いのようにできればいいのですけどね。
→やれている人はやれているわけで。決して特別な人ではない人が。
●経済的な負担の大きさを考えると,現在の状況においてはボランテイアや友人・恋人といった自発的に介助を行ってくれる人に頼らざるを得ないのだろう。しかし,中村さんにしても学生生活を終えられてからは,きっと非常に大変な思いをなさることにならないだろうか。何故なら大学において友達となった人々は各地へ就職していくであろうし,時間的な制約も生じてくるだろう。そうなれば,自分とは年代の異なる人々などの手(家族かもしれないが)を借りる必要が生じてくる。これまでの様な,友達=介助者の関係は完全には生じ得ないのではなかろうか。
できれば,社会人の方で自立生活を送っている方の事例をうかがいたく思います。
→ビデオでお見せしたいものが2本ほどあります。が,この話にばかり関わっていてもいけないんじゃないかなあ,との迷いもあるので。どうするどうする? 希望者が複数いれば考えます。
●私たちはよく,介助はする人の方が大変,と思いがちだ。(実際私もそうだったが)しかし,介助される人の立場で考えてみると,介助される人にもかなりの苦労があるんだな,と思った。自分の裸を見せたりなんて,私にはとてもできない‥(でも,そんなこと言ってられない状況なのか。)少し今までとは違った見方で,介助関係を見れる気がした。
→そうですね。私も書く行為にまで及ぶほど意識化したことはなかったような気がします。
●自分は他人との関係を気付きにくいと思う。だから,様々なところに積極的に出ていく友人を自分とは違った個性を持った人だと思っていた。でも,様々な人と会うことで,自分と関係を築ける人と出会ったり,築く技術が身につくものなのかもしれない。
→そう,お分かりかもしれませんが,出会いというのはすごいパワーをもらうことでもあるのです。とりわけ良い出会いをして,素敵な話・体験があったときなどには。そして不思議なことですが,こんな私であっても,もらうだけでなく相手にパワーを与えることがあったりします。不思議ですねえ。
最後に
介助論の触りを前回は紹介しました。そこで出てきたコメントのひとつは,「なぜわざわざこんなことを?」という疑問でした。端的に言えば,地域での生活を行うために必要な介助者の確保は,感情的・人間的な関係からだけでは到底じゅうぶんではないし,また安定もしない,というのがひとつの理由でしょう。また,必ずしも常時濃厚な感情的関係ばかりを必要とするわけではないということ。それから,現状での介助関係のあり方では自分の主張をじゅうぶん伝えることが出来ずに,困ってしまう場合があること。
第5回では若干の補足をしたいと思います。
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