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回答第5回
●質問:教室の前で手話をしているのはどういう方ですか。
→5ページの最初にコメントしてくださった方がいますので,そちらをご覧ください。学生有志による,講義保障を進める方々です。主として手話サークルの人たちがメンバーですが,その他の方々でも入れるのですよね。手話は出来なくともノートテイクでサポートする方法もあります。
なお,これはチューター費が出るとはいえボランタリーな意味合いの強い活動だと思います。最終的には公的な(大学側の)保障する制度になるべきである,とするのが彼らの考え方です。以上,紹介させていただきました。関心のある方はご連絡ください。
●細かいことですけど,第四回4ページに看護婦(夫)とありましたが,男の人のことは「看護士」というと思いますが…。
→そうですね。ナースという言い方もある。
関係ないですが,保父という言い方が法規上認められるようする動きがあるようですね。総務庁が厚生省に対して申し入れをしたそうです。現在は正式書類には「保母」と書かなければならない。
●先生はいつもいろいろなお話をして下さいますが,どうして,今の研究をしようと思ったんですか? よかったら教えて下さい。
→私の知人が「どうして障害者ではない私が障害の研究をするのか?」と自問自答した結果「好きだから」との答えを出しているのを,つい最近見かけました。
えーと,どの辺から答えればいいのだろう。私の方はというと,最初から「好きだから」などと前向きに言えるような態度は持ち合わせていませんでした。それどころか障害のことなど全然知らなかったし,かなり無理解な人間であったとすら言えます。私は大学へ入学したときには,多分,自分に足りないものを補うにはどうすればよいか,適当な方法を捜していたように思います。もちろん今だからそう言えるのであって,当時は単なる無目的な大学生でしかなかった。心身障害学主専攻となったのは,だからその回答を得るための自分本位な選択だったのだろうな。少なくとも志のようなものはみなさんより低かった。
その後はとにかくいろんな人と会いました。会う中で見聞を広め,かなり試行錯誤しながら現在のような興味関心を抱くようになってきました(もしかしてここの部分を聞きたかったの?)。そして今は,授業で話をしているような領域について勉強し,仲間と活動することが性に合っていると思っています。
自分に足りないものは補えたのかって? いえ,いつの間にかそのような問いを自分にすることが無くなっていったのです。補えたのではなくて。
●ちなみにこの講義はどのくらいの登録者がいるのでしょうか。興味はあって,取っている人は多いと思いますが。でもいつも20〜30人位ですけど?
→登録だけでしたら90人です。でもこういう単発&関連科目にしかならないコマの宿命でしょうか,実際に聞いてくださる方は少ないですね。それとも面白くないの? 第1回こそたくさん来てくださいましたが。ちなみに現在は40名前後です。
●今日授業を聞いていて思い出したことがあります。先日,友達と食事にいった際に,このような(腕を組んだ絵)3人連れの人がきました。脇の2人は目が不自由のようでした。すごい楽しそうでうらやましかったです。介護とかも,もっともっと楽しんで行えればいいと思います。ま,それに関わる人々の気持ち次第でしょうが…
→絵まで描いてくれて楽しかったです。
ボランティア論
講義内容から見てコメントの多くがボランティア論であったのは当然なのですが,しかし有償ボランティアに関する意見がほとんど見受けられなかったのは,正直言って意外でした。昨年の本授業も含めて近年有償ボランティアの話題を紹介すると,必ず是非それぞれの意見が多く聞かれたからです。今回は有償ボランティアについて話す時間が相対的に少なかったからか,それとも次第に有償制が認知されるようになってきたということか。
【ボランティアの原則論について】
●ボランティアの三原則のA無償ということから考えることがあります。プリントにあるように無償だと「ビンボーニンはボランティアをやれない」ことになってしまうと思う。障害をもつ人に接していきたいと思っても,自分が生きていくことを考えると,ボランティアによって関わっていくことは難しいかもしれない。これは無償によるボランティアを無くせということではなく,それはそれとして存在していて,別に福祉の仕事(介助などの障害者への手助けなど)をきちんと職業として確立させるべきなのではないかと思う。そのことによって福祉に関わる人も増え日本における福祉の体制も確立していくと思う。有償にしたからといって,障害をもつ人の手助けをしたいという気持ちがなくなるとは決して言えないはずである。それよりも気持ちがあっても関わることが難しいという人を放っておくことはとても残念なことだと思う。
→。福祉の仕事としての確立というのは,介助に携わる人間としては重要な視点であると思います。日本でもそのような制度の確立を目指して活動している団体の有ることは既に紹介したところです。また,例えばカリフォルニア州では,十分とは言えないまでも介助保障システムが構築されて注目を浴びています(家庭内支援サービス:In-Home
Supportive Service, IHSS)。
ところで有償ボランティアと無償ボランティアの関係ですが,おっしゃるようにいろんなかたちが保障されていることが大切なのかもしれませんね。
●ボランティアの話ですが,地域活動でゴミ拾いをするのはボランティアだけれど,道に落ちているゴミを拾ってゴミ箱に入れるというのはボランティアではないと別の例えにありました。
この考え方でいくと,介助を日常的に行う人はボランティアで,道でたまたま出会った障害者の方に手をかすのはボランティアではないということになるのでしょうか? 私は後者の人が増えればいいなと考えているので,ボランティアでないと言われるのは少し残念に思いますが。
●ボランティアの原則,私は「継続性」って大事だと思います。それはボランティアというものの定義にもよるのでしょうけれど,私はボランティアというのは精神的な問題(それを自主性というのでしょうが)で,それは決して突発的でなく,一過性のものでなく,継続的なものこそ真実だと思うのです。
→ひとつ前のコメントにある,ゴミ拾いの話ですが,「継続性」を念頭に置いたときによく議論されることですよね。活動として考えた場合には,確かに継続性は重要な要素になってくると思います。組織として秩序だって行う場合にはとりわけ要求されてくるところでしょう。ただし,だからと言って「とおりすがりの助け合い」が否定されるわけではないことはお分かりですよね。単発にせよ継続にせよボランタリーな気持ちから始まることには変わりがない。どちらにせよ自主性原則は保たれている訳です。ただ,ひとかどの成果をあげようと意図する場合には,継続してやらないと達成できないということだと思います。
●ボランティアは自主性だという。しかし,一番の問題はとっかかりやすさだと私は思う。
→これってとても面白い考え。「原則」として抽出する手合のものではないでしょうが,しかし,ある意味では重要。
●一応,念のために,ボランティアの第四,五原則である,先駆性,継続性について簡単に教えて下さい。
→「先駆性」というのは「公益性」を念頭に置きながら活動していると自ずからぶつかってくる特質だと思います。大抵の場合「どうしてもやらなくちゃならないけど,行政サービスなり仕事なりで対応されていない活動」をやることになるのですから,「誰もやっていないけど必要性の高いもの」すなわち先駆的なもの,になるのでしょう。またプリントには,そのような気概を持ってやるべし,と書かれてあったのでは?
「継続性」の方は既に書きましたね。
●ボランティアの三大原則と言っても,私は何よりも自主性がないと成り立たないと考える。夏休みに課題としてさせられてつくづく思った。
●ボランティアは自主的であるのが望ましいと思うが,プリントで書かれている「勤労奉仕」という形をそんなに悪いものではないと思った。どんなにいやいややっていた人でも,やる事によって多少なりとも意識変化が起こると思う。
→後から芽生える気持ち,というのは確かにあるでしょうね。そういう意味ではボランティアの目的を大上段に構えて敬遠してしまうよりは,難しいことはまあいいや,と思いながらさっさとやってしまう方が楽だと思います。ただし「やりたくないものを強制的にやらせられる」というのとは違うわけで。
そういう意味では学校でボランティアを課するというのは両刃の剣なのでしょうね。
●私は環境問題に関心を持っているのですが,今日の,「ボランティアの三原則」の話を聞いて,その精神は環境保全の精神に通じるものがあると思いました(…と書いているうちに,そのような内容が講義で出てきましたが…)。それらの違いは,介助ボランティアのように人間を対象にするのか,森林等,人類や地球を対象にするのかといった対象(の範囲)の違いだと思います。
また,他者との出会いが,アタリ1:ハズレ2のような感じだとすれば(?),より多くの人との出会いは,アタリの数を増やし(?),そしてその出会いがたとえハズレであっても,長い人生の中ではプラスになる(よい経験になる)と思います。そうなればいいのですが。
→そういうものなんじゃないでしょうか。ハズレも多いけれど,アタリもあって,だからこそ,まあ何とか腐りもせずに毎日生きていけるわけで。
【「つながりあい」の定義について】
●授業を受けるうちに,次第に私は,もしかしたらボランティアって嫌いなのかもしれないともやもやしたものが出てきました。定義というか,原則とかにひっかかりをもったのか何なのか,もっとゆっくり考えてみないとわかりませんが。
(でも)ボランティアとは「人と人とのつながり合い,つながり合おうとしている」という話を聞いて,初めて自分の心の中に受け入れられてきている気がしました。なぜ嫌いと感じていたかはゆっくりと自分に問うてみたいと思います。
→ここにたくさんの意見が並んでいるように,私が先週言ったことも絶対ではないですし,どうぞいろいろ考えてみてくださいな。
●「ボランティアとはつながり合いを・・・・。」という先生の言葉を考えて。
「ボランティア」とは,とても都合の良い言葉だと思います。(中には,とても人なつっこく付き合い方のうまい人もいますが)人と接する機会の少なくなった現代社会の中で,「ボランティア」という言葉を通すことにより,他人との関係を築きやすくなることがあると思います。例えば,「介助ボランティア」であるとすれば,少なくとも「介助」について関心があるのだろうから,参加するものどうしの交流においても共通の話題みたいなものが前提としてあることになります。(例としてちょっと極端かなあ。)
●ボランティアは「行動」のことだと思っていたので,「姿勢である」とする定義は新鮮だった。範囲がかなり広がると思う。
●今まで「ボランティアしなければ」という意識だったので,自主性の原則や「他者とのつながりあい」という意義づけに,目からウロコの気分です。
他人に対する奉仕の感情の少ない人間(例えば私)はボランティアはムリかとも感じていましたが,でも講義をきいて,他者とのつながりあいを求める気持ちでボランティアができるような気がしました。
●ボランティアの定義について先生が板書したが少し意外であった。どこがどうというより,いまいちボランティアという語に当てはまらない気がした。「人と人とのつながり」は何もボランティアに限ったことではないからだ。
→これは当然出てくるであろうコメントだと思います。他者とつながることは人間関係の基本的な姿でもあるわけですし。
しかし金子氏の主張のようにつながり合いが拡がって多くの人(あなたが直接には関知しないかもしれない人間も含めて)が関りあうようになれば,その活動は自ずから社会化してくるのではないかと思います。そのように社会化された活動のことをボランティア活動と一般には称するのでしょう。そしてそれは,ミクロに見れば人と人との関りあいに過ぎない。
【それ以外・全般】
●「誰かのために何かをしたい」という考えは,必ずどこかで破綻をきたすと思います。恋愛もそうだし,親子関係でもそうだろう。私はみなさんが障害者−健常者での関係で考えてコメントしたものは,普通の生活の中でいくらでも体験できる思いだなあと感じました。要は,「自分がしたいからする」のではないのでしょうか。たとえ誰かに何かを与えてあげられなくても,自分がいいと思ってやったんなら,自分は満足だし,もしそれで誰かが何かを得たのならなお良しだし。
でもたぶん,そういう「自分の意志」に自信を持てない人って今とても多いのじゃないかと思います。自分自身も含めてですが,「自分のしたいようにする」ことって,とてもパワーのいることです。だから,自分の中に自分を求めるのではなく,他人のなかに自分を映して,「自分」を感じる事のできる「ボランティア」が流行りなんじゃないでしょうか。
こんなこと書くと,すごく「ひとりで生きてるヤツ」みたいに思われそうですが,私のモットーは「人との出会いを大切にする」です。ただ,人との出会いで何かを期待するのではなく,それを自分の成長の糧としていると思っています。
→先週も書いたと思うけど,ご指摘のようにパワーがとてもいるからこそ人と会い,そしてそこでパワーをもらう(あるいは相互に作り出す)のですよね。このコメントはとても楽しく読ませていただきました。
●ボランティアをすることが自己満足のためであっては(それでおわっては)いけないということをよく聞きますが。本当にそうなのでしょうか。
私はボランティアっぽいことをしていますが,第一には自分のためにやっているような気がします。私のやっていることは単なる偽善なのかなあと悩むこともあります。
→上の方のように考えるのも,ひとつの方法だと思います。よろしかったらお試しください。
●ボランティアをやりたいという考えはあるが,忙しさなどを理由に今まで一度もやったことがない。時間にまだ余裕がある大学生のうちに勇気をだして挑戦してみたい。
●ボランティア活動はますます多様化し,本来の自主性というものは失われつつあるように思う。その自主性や活動内容よりも,ボランティア活動をやっているか否かが評価の分かれ目だったりする。近年,ボランティアという言葉が蔓延しているが,その意味を再確認する時期がきているのだと思う。
【有償是非論あるいは関連の話】
●ボランティアでいちばん難しいのはやはり介助する側とされる側の人間関係およびお互いの個性(というか権利というか)の尊重だと思う。手話通訳者もチューター費をもらっているとはいえ,すずめの涙ほどで,実質的には無償に近いと思う。しかし,通訳者は通訳のやりすぎで頚肩腕障害とかを引き起こしやすい。これは非保障者のニーズと保障者の問題(対面など)のぶつかり合いズレによるものだと思うが,やはり,法律面にしても社会環境面にしても,介助をうける側はもちろん介助する側の権利が保障されるようなシステムが必要になると思う。
●ボランティアは,現在「善い行い」というイメージが強く,金銭的な話をもちこむことがタブーとされているように感じます。例えば,授業で扱った配膳(食事)の有償ボランティア団体だが,これが一歩進んで採算がとれるようになれば,会社組織になってもいいのではないかと思う。このような意見はボランティアをしている人たちに,かなりの反対をうけるかもしれないが,社会的弱者とよばれている人々のQOL向上etc.のためのサービスが事業として成り立つというのは逆に言えば,健全な社会とも言えるのではないかと思うのですが。障害者や高齢者は常に,無償の福祉的サービスの対象であるだけでなく,企業(社会)からひとりの顧客としての対応をされてもよいのでは,と思います。
授業の内容と話がずれていてすみません。卒論で,企業の社会貢献活動やボランティア活動の調査をしているのですが,そこで感じるのは,企業がボランティアの原則にしばられすぎ,ボランティアにおいては自分の側にメリットがあってはいけないという姿勢が強すぎて,企業のよさを生かしきれていない気がしたので。
→体験に基づく興味深いお話をありがとうございました。いろいろと気づかされることがありました。
後でまた触れることになると思うのですが,福祉という(なんだか中にいろいろ詰まっていそうだけどよくわからない)言葉をとりあえず横に置いて,社会サービスという観点から考えてみましょう。昔でこそ限られた供給源から細々と与えられてきたサービスですが,近年ではそのようなサービスを必要とする人々が,また必要とされるニーズの内容が非常に多様になり,また一般化してきたと言えるのだそうです。つまり,一部の人に施されるものから多くの人に提供されるべきサービスへと変わってきているというか。そのような中,不十分なサービスの質・量を補うために,また従来の制限のキツイ行政からのサービスに対抗するために,サービスの受給コントロールを取り戻すために,企業の社会的存立基盤を確かめるために,いろんな人(団体)が,いろんな方法や経路で,サービスを提供するようになってきています。そのような意味で,現代は福祉の多元的供給が行われていると考える人たちがいるのだそうです。このことによるメリットとデメリットは,追って話ができると思います。コメントしてくださった方の話に戻しますと,サービスを(福祉という言葉に捕らわれることなく)その受け手のことを考えて提供されるようにするのならば,望ましいサービスの選択肢がひとつ増えたと考えて歓迎できるのではないでしょうか。
課題など含めていろいろ書きたいこともあるのですが,長くなるので止めます。書籍ですと,例えば以下のような文献も参考になるでしょう。ひょっとして気が向いたら眺めてみてください。
◆福祉士養成講座編集委員会(編):社会福祉原論.中央法規出版,1992.
◆古川孝順(編著):社会福祉供給システムのパラダイム転換.誠信書房,1992.
◆隅谷三喜男・丸尾直美(編著):福祉サービスと財政.中央法規出版,1987.
また,今回の授業での参考文献もあげておきます。
◆定藤丈弘・佐藤久夫・北野誠一(編著):現代の障害者福祉.有斐閣,1996.
◆佐藤久夫:障害者福祉論.誠信書房,1991.
◆手をつなぐ,1997年6月号(特集:入所施設は今…).全日本手をつなぐ育成会.
◆ノーマライゼーション,1997年9月号(特集:施設は今−−地域施設最前線).日本障害者リハビリテーション協会.
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