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質問・意見に対する回答(第3,4回分


自立の話

● 当たり前のことだと思って今まで考えてもみなかったことが意識の中に入ってきた。
● 自立の話。私は,自立できていない。だが,自立したいと思っている。親への依存のしっぱなしはよくない。親はいつでも助けてくれる。だけど,いずれはいなくなる。私にだって,子どもができるかも知れない。そしたら,今度は依存される。確かに100%何にも依存しない,ということはありえない。しかし,社会を支えていく一員として,自立し,与えていくようにするものだと思う。
● riskをおかす自由というのも,少し解釈が難しいと感じました。でも,現実として,障害のある人が,授業をサボル自由とか,ナマイキなことを言う自由とか,その人は自由に行動できても周りの人は“ナンダ!?”と思うことも多いと思いました。本当に“riskをおかす”というのは,健常者も,障害者も相互にもっと理解が必要だと思った。
● 先週授業に来て頂いた中村さんの介助にさっそく行ってきました。とっても楽しかったです。中村さん本人もとても明るい方ですし,一緒にいた他のメンバーの方たちもいい人で,行く前少しドキドキしていたのが終わってからは安心に変わりました。これからもお世話になりたいと思います。

⇒ そういうもんですね。また新しい世界が開けてきたこと,おめでとうと言いたいです。

● 日本でのILの特徴の様なものがあれば,他国と比較して少し知りたいと思いました。

⇒ きちんと言えるほど見識が深くありません。ごめん。宿題。

● 施設の中では「その人が自立するために(セルフケアが満たせるように)」と関わっているが,それは施設内又は家庭内(援助者がいる状況)での自立であって,ILにはほど遠いのかな…と少しショックでした。ILを望んだ時,その基礎になるようなことが身につけられるようになるとよいと思う。「自己決定」を支える又は受け入れることの難しさを感じた。

⇒ 基礎を身に付けることは重要でしょうし,そのための更生施設なりなんなりであるのでしょう。と同時に利用者がどのような生活を望んでいるのか,それを満たすために何をすべきかも考えなければならないのですね。言葉が独り歩きしているようで正直使いにくいのですが,いわゆるノーマライゼーションの保障される環境を目指すという志向を持ち続けることも必要でしょう。環境などとぼかしましたが,これには私たちも含まれます。
施設と地域の関連などについてはまた回を改めて話します。

● 「自立生活している障害者は,かなり少ない」ということだが,何故少ないのか?ということについて,もっと知りたい。現在,障害者は,施設に住むか,地域に住むかを,「自己決定」できているのだろうか?

⇒ できている人は数的に極めて少ないと言えると思います。選択するためには選択肢が選べるほどに用意されていること,選択の行為が保障されていること,さらには地域生活の継続を支援する体制が整えられていることが必要ですが,それらのいずれもが現在では不十分だからです。絶対的に少ないし,望む人の数と比べても少ない。

● 「自立」するということは普通に生きること,社会の一員になることなのだと思えました。“riskを冒す自由”という視点が印象的だった。確かに一般人の特権なのだろう。

⇒ それをみんなの手に取り戻すということですね。当たり前のことに戻す。そこをスタートにしてもう一度考え直す。私たちにとってもリスクのことは考えなければならないことなのだから。

● 「障害」ときくと,何でも深刻にとらえがちになっているが,今日の「自立」の話でわかりました。もっと肩ひじ張らずに考えられるといいです。
● 親元を離れたくて,大学に来たが,今の生活が自立生活とは思えない。自分一人で生活することはできる。表面的には・・・。でも,精神的には他の人に依存しないで生活するのはかなりキツいと思う。肉体的にそして精神的に自立するというとすごくかっこよくきこえるが,それができる=孤立する,のような気がする。
● 家を出ようとする話の中で,障害を持った人の自立も健常な人のそれと変わらないということが,印象に残った。

⇒ 細かくいうと「変わらないはずである」ということでしょうか。ところが現実的にはその前提を阻むものも多いですね。だから「障害者の自立は健常者とは違うんだから」という議論になってしまう。順番に気をつけないと。

介助・介助関係

● 介助者と介助を受ける側の,それぞれの自己主張をはっきりすることが,介助という活動が成り立つためには大切であることを感じました。また,このことは,介助にたずさわる人だけでなく,介助を必要としない人にとっても大切なことだと思いました。
● 実際に介助をしているが,その際に無意識に“保護者”の感覚を持つ自分に気づく。Independent Livingは,介助をする側の意識が変わることが必要条件なのかもしれないと思った。
● 脱施設化がさかんとなったとありますが,「施設」の利点は,議論の対象に含まれなかったのでしょうか。

⇒ 歴史を詳しくは知りませんが,当然反対派との議論があり,施設の利点も主張されたと思います。とりわけ入所(生活・居住)施設。しかし当時の利用者に対する処遇の問題点が強く指摘されたこととノーマライゼーションという考え方の紹介により,脱施設化の動きは進みました。人権侵害も指摘されたので。
また時を現代,しかも日本に移しても施設の利点と問題点はやはり指摘することが出来るでしょう。さて私たちは入所施設などの機能と役割をどのように考えるべきか。

● 重度の身体障害者が自立する際,実際問題としてたくさんの人に迷惑をかけますが,それを正しいこととして正当化する理由あるいは考え方があれば,はっきり教えて下さい。また,生産力のあるないで人の価値を決め,障害者は障害があるためにその生きている価値がなく,また,国から年金をもらい,税金の無駄使いだ,国のお荷物だ,といわれる昔からの考え方を覆す理論があれば,はっきり教え,納得させて下さい。

⇒ 講義の時にも幾らか触れたように思います。でも迷惑をかけることが正しいかどうかはわかりませんし,覆す必要があるのかどうかもわからない。でも言われる方にとってみれば,辛い言葉だろうな,とも思います。
私にはまだ答える力が無いように感じます。これ真面目に考えると難しいよ。個人的な感想でいうならば,他人の生にとやかく言えるほどの人間がどれほどいるのか,と思います。

● こんなことを書くと,「身障者福祉論」を学びに来たのに,薄情な人間に思われるかもしれませんが,もしかしたらやはり自分の考えが間違っているのかもしれないし,もし間違っているのなら指摘して戴けるかもしれないことを勝手に期待し,書かせて戴きます。(前置きが長いですが)“身障者”と言われる人にも勿論personalityというものがあって,考え方も人其々。ただ,中村さんのお話しを聞いて,率直な意見。「こんな人の介助,やりたくない」理由は明確。“わがまま”だから。恐らく,彼の基準と私の基準が違うのでしょう。「いくらなんでも,それはただのわがままでしょう」というのをかなり感じました。だから,「やりたくない」。しかし,ここが重要。“彼の基準と私の基準”。しかし,果たして私の身障者の気持ちをわかろうとしていないのか?“私の基準”は少し奢っていないのか?自分の心の中に「【彼は介助されている身なんだから】…」という気持ちがないか…,それが分からない。介助をしている人はどんな理由で,どうして介助をするのだろう。自分の時間をけずってまで。ノーマライゼーション?果たしてそんなことを皆が皆考えているのだろうか…。今はそれがよく分かりません。

⇒ 薄情という問題ではないでしょう。奢っているかどうかもまだ判断すべきではないと思います。問題をどのように認識しているかです。本当を言えば,やってみながら考えたほうが地に足のついた思考を進められると思うのですけれどもね。
介助者の気持ちがどうであるかということについては,どうやら幾つかの種類があるようです。「理由」と言ってもいいでしょう。ある人は3つほどにも分けました。面白いのは,たいていの人は複数の気持ち(理由)を同時に持ちながら介助行為を行っているようだということです。やってる人だって,必ずしもはっきりした考えに基づいてやっているわけではないんだよ。
幸いに新たに介助者に入ってくれた人のコメントも掲載されていますね。そちらもご覧ください。
なお介助を「する−受ける」という関係性については多くの人が関心を持っているようで既に昨年までの質疑応答録の中に蓄積もあります。よければ私のページに入って読んでみてください。他の方々にもお勧めします。
それから,あなたの文章の中には,個人的に中村君の発言や考え方を好きかどうかという部分もありますよね。それは各人の自由だと思います。そんな人がいてもいいし,すべての人が彼のことを好きなんだったら気味が悪いよね。それは私についてもそうだし,あなたもそう。そんなことよりも,私はあなたが率直に書いてくれたことの方が嬉しい。
#ま,言われた中村君はどう思うか別なんだが,私と彼は違う人なので。

。生活保護

● 生活保護のためのお金が,思っていた以上に給付されることを知った。給付されても,決して楽にはならないと思うが。
● 年金や生活保護というような制度の矛盾を感じてしまう。“最低限度”必要だということはわかるけれども,何もしないでお金が入ってくるわけで,勤労意欲はあまりわかなくなってしまうのではないだろうか。

⇒ この辺は話したような気がするんだが。
確かに不正受給のような人やなかなか就労に繋がらない人もいるように聞きます。
このような問題は,他の社会サービス制度について  生活保護法では「経済的な自立」を目指して助長するために給付されることになっています。

● 生活保護をもらっていて,今日言ったように,働かずにお金をもらって「なんだ!」と言う人がいて,実際そういった言葉が気になって,後ろめたくて,思うように生活保護を活かせないことがあると思いますが,そういった場合,どう考えればいいのでしょうか。また,どんな人にでも納得してもらえる生活保護の利用の仕方とは何でしょうか。

⇒ 以下のコメントが答えにもなるかもしれません。

● 低賃金で自立して生活している人にとっては,生活保護を受けている人が甘えていると見えてしまうのは無理はない。しかし,「自立する為の援助」であれば,それはある種の教育であり,教育には生活費と違う「ムダ」な部分のお金が必要なのは理解できる(自分の身で考えてみて)。福祉は全体的に底上げすることが出来たら本当のノーマライゼーションに結びつくと考えていたが,それは可能だろうか。
● 生活保護収入について,確かに働いていながら生活が苦しくてしょうがない人にとっては,保護収入で普通に暮らしている人というのは,なんとも納得いかないものだと思う。けれども,一方で,保護下にある人が幸福で生活が向上するのをおさえつけ,あくまで最低限度ライン上で暮らせというのは,私個人の感情としては“それはないだろう”と思ってしまう。やはり,“幸福な最低限度の生活”というのは,良くも悪くもの面を持っていると感じたが,講義で紹介されたように,良い方向にだけ向かってほしく,決して足をひっぱり合うものとして使われてほしくないと思った。私としては,自分で働いている人は,本当に困難な場合などもあり,一概にはいえないが,自らの力で,何らかの機会で,生活が向上する可能性があるし,何といっても,いろいろな面で自由を持っている。その自由を換算することはできないし,そうして保護下にいる人と比べる事も強引かもしれないけれど,考慮していいのではと思う。とても難しいけれども,幸福な生活というのは,個々人によって設定されるもので,普遍的にキテイされることは不可能なもの。状態・状況に加えて個人の感じ方・考え方しだいなものだと思う。もう少しじっくりと,ずっと考えていかなければいけない問題だと思う。それから,生活保護とは別に介護料を,という考え方には賛同する。介護部分をおぎなって,同じスタートラインというのは分かる気がする。もう少し自分なりにも考えてみようと思った。
● 生活保護法についてはそれをうける人の状況等を様々に知らないと何もいえないと思う。環境・その人自身の能力等。本当は,誰もが納得のいくような制度であることが望ましいけれど,不可能なのではないだろうか。主観のからんでくることなので。
● 生活保護法に関しての話は,「人間性」の豊かさに関係してくるように思いました。私自身に起きた場合のことを考えると,今の私なら,生活保護を認めてあげたいと思うが,もしも,自分の生活が苦しくて,その日暮らしのような状況だったら,生活保護をうけている人をうらやんでしまうかもしれない。だから,理想としては,人間全員が「心」の豊かな幸せな生活(生活保護法の考え方)が送れていたら,其のような議論も起こらないのではないでしょうか-と思いました。こういう話題は,これから福祉の必要度が高まってくる日本において(世界においても),福祉を金もうけの手段の一つと考えても良いのかどうか,また“福祉”という存在自体がそのサービスに関わらず金もうけのターゲットにされるのでがないか,と難しい議論につながるように思いました。

「 年金等

● つくば市における手当・年金関係はどのようになっているのでしょうか。

⇒ 年金は市レベルではなく国の話です。手当は国・都道府県・市町村それぞれで設けることが出来ますが,つくば市単独の障害者関係の手当は無いようです(平成8年現在)。つくば市役所へ行くと「市民べんり帳」というのがもらえるのではないかと思います。そこの障害者関係の項目をみてはいかがでしょう。つくば市民が利用することの出来るサービスが紹介されています(どの行政レベルかは区別がわかりませんけど)。
ちなみに,つくば市の福祉施設一覧は以下のところにあります。利用できる制度一覧はありません。
http://www.city.tsukuba.ibaraki.jp/welcome/life/

● 「障害者」が働いていないのにお金をもらえることの正当性について,生存権等の面からしか,論じられないのだろうか。いろいろ考えてみたい。
● 最近私は20才になったので,税金を払えという通知が来ました。学生に月々1万3千3百円も払えという国の考えが理解できません。すいません,脱線。それはさておき,私が障害を持った時,お金を受け取れないのは死活問題になるのでしょうか。障害者はお金をもらいすぎているという議論には,こんなにたくさん税金(かけ金)を払っているのだから,保険金を受けとるのは当たり前というのはどうでしょうか。

⇒ 私も脱線。現在では学生でも20歳になったら加入してほしい,ということになっています。というか,あなたの年金制度は既に始まってしまっているのですね。だから今後必要の生じたときに年金を受けとるためには加入手続きだけは済ませておかなければなりません(受け取らなくていいんだったら加入しないことになりますが...)。で,学生の場合には保険料を親が支払うこともできましょう?そうやっている人も少なくないのでは。またあなたが責任を持ちたいのであれば,学生をやっていて保険料を支払うほどの収入を得る立場に無いことを市役所の税務担当窓口へ行って話してください(手間を避けるため,事前に電話で相談することをお勧めします)。「免除」期間として認められます。この期間は支払っているのと同等に見做されます(資格期間としての参入)。
次に本題。障害基礎年金の受給資格は1〜2級の人に限られます(厚生年金は3級も該当)。1〜2級でありながら年金を受け取れない人は収入手段がかなり制限されていますから,生活が困難になることでしょう。ですから答えはイエス。最近では「無年金障害者」の実情を訴え制度改善を求める運動もあります。

」その他

● 町で介護者を介護する介護犬に出会った時,エサをあたえないことや声をかけないことの他にやってはいけないことは何ですか? 又,介護犬がどの様な仕草をしたときに手助けをしたらよいのですか?

⇒ 介護犬というとパートナードッグあるいは介助犬を思い出しますね。同じことが言えるかと思いますが,盲導犬についてご存知の方に回答をしていただきました。盲導犬がハーネス(盲導犬の付けている器具ですね)をしているときは彼(女)にとっては仕事中ということですから,気を散らすようなことをしてはいけないということですね。また,そのように反応してはいけないと訓練されてもいるそうです。
後半の質問については,このような回答を戴きました。

At 9:10 AM +0900 98.10.12, 青柳さん wrote:
>  基本的に盲導犬は、パートナーの前方の安全を確保しながら誘導していて、信号を渡るときや道の角を曲がるときにはパートナーの指示に従っています。ここからは私的な意見ですが、犬ではなく、犬を連れている視覚障害者本人を見て、その人が少しでも困っていそうなときに一言声をかけて見るのが最も良いのではないでしょうか。

補足すると,盲導犬が教えることが出来るのは「かど」「段差」「障害物」のみだそうです。それ以外はすべてパートナーである視覚障害者が指示を出しているのですから,盲導犬に確認を取るよりはパートナーに聞いたほうがいいでしょう。

盲導犬に関しては心障学系の徳田研究室に良い本があります。
徳田克己・望月珠美「盲導犬に関する社会的認識と福祉教育プログラム」障害理解研究会出版部,1998.
#本項については徳田先生と青柳さん(心障DC院生)にお世話になりました。ありがとうございました。


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