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質問・意見に対する回答(第5回分)


泱モ導犬


● 盲導犬が道の案内までは出来ないことは,当たり前のようだが,言われてなるほどと感じた。視覚のないまま,周辺の地図を常に頭において,音や段差だけで身動きするのにはかなりの神経を使うのだろう。目の見える自分でさえボーッとしていて車を運転中,曲がりそびれたりするのを考えると,やはり歩きながら考え事も出来ないのだろう。

⇒ 「考え事が出来ない」かどうかは本人に聞いてみなければ分からないです。出来るときも有れば出来ないときも有るように思います。私たちだってそうでしょう? 歩くとき,自転車のとき,自動車のとき。

● ネピアかなんかで,盲導犬キャンペーンかなんかを時々やっていますが,ああいう活動がもっと増えるとよいですね。
● 盲導犬はなぜ視導犬と言わないのですか? 聴導犬は聾導犬ではないのに。

⇒ つけた人が違うことを考えていたんでしょうね。で,語感とかいろんな条件で言葉が普及していった。

● 町で介護犬をつれる人に会うと,とても複雑な心持ちになる。何かしてあげなければならないのではないか。でも何をしていいか分からない。逆に何も余計な手をだすこともないのか,と。他の障害者の人に対しても同じといえるかもしれないけれど,いつも気持ちばかり高まってしまって,障害者の方に視線を送り続けてしまうことがよくある。その度に相手が視線に気づいて,変に,嫌な気分になってしまったかも,と心配にもなる。今まで,そんな場面に出くわすと,どうしたらよいか分からない。

⇒ 前回話したように,盲導犬を連れていても介助者の必要なときはあります。本人に尋ねて確認するのが最も手っ取り早いでしょう。「どうしていいかわからない」という不安やためらいは実際の経験を積むことで,あるいは関連する知識を増やすことで解消される部分もあります(書籍としては前回紹介の本などが有用)。しかしどこまで行ってもすべて分かるわけではありません。結局本人に聞くのが最も良いことになる。どのように介助すべきかを具体的に最もよく知っているのは本人であることを再認してください。
 介助を申し出て断られたらそれでいいのです。不要だったことが確認できたのですから。

共同作業所


● 小規模地域作業所では,具体的にはどんな仕事を行っているのですか。

⇒ 多様です。下請け的なことをやっているところもあります。割りばしを袋に入れて一定数にまとめるとか,雑誌の付録をまとめるとか。オリジナルなものを作ることもあります。ハガキや工芸品など。これらは本当に多様なので何とも言えません。ただいずれにしても収益は高くならないところが大概です。

● 私の実家の近くに,地域の作業所がありました。それは,国だったか,市だったか忘れましたが,補助金が出ていたようでした。そのような作業所もすべて法外なのでしょうか。法内の作業所というのは存在しないのでしょうか。教えて下さい。

⇒ 補助金は出るようになっています。茨城県も出ます。しかし先日示したような法律に記されていないので,法外ということになります。
これについては説明文書を資料として提供しますので,ご覧ください。

。施設

施設関係についてはまた今回話しますので,コメントは改めてさせてください。

● 人々が,施設を嫌う理由は簡単ですよね。日本では,施設に一度入ったら,生涯ずっとということになるケースが多すぎる。だから,その簡単に施設にお世話になるものかという気持ちが生まれるのだと思う。
● “施設”という言葉って,どうしてあまり良い響きじゃないのでしょうか。これは私ひとりが感じていることなのかもしれませんが,“施設”に入所する人々の大半は,自分の意志よりも周囲の人々の意志によって入所させられているように思うからです。その点,今日の講義の内容で,もしかしたら私がそのように思い込んでいただけなのかもしれない,と思わされたのは“法外施設”の存在でした。法外施設は法内施設では間に合わないニーズに応じるためにできたとありましたが,それが,障害者つまり,施設に直接的に関わる人々によって主体的につくられた施設なのなら,これから“施設”の姿が変化していくのではないかと思いました。はっきり言って,“施設”という言葉であらわされるところは,その利用者の主体性がもっともっと重要視されるべきだと思います。
● 法内施設について;児童福祉法が今年改正施行され,自立支援機能を強めるということですが,強めるための設備や職員数などに関連する最低基準は全く変わっておらず,改正しても意味がないと施設の職員が言っておりました。法律は現実に合ったものになるまで,ずいぶん時間がかかるものだと残念に感じます。
● 施設などの制度を柔軟に変えていくことは人間の生活に深く関わっている以上必要不可欠なことで,その為にはトップダウンではなくボトムアップ式の決定方法が有効だと思われます。そうすると,福祉を行政が管理していること自体に限界があるのでしょうか? 自治的な施設(法外施設?)が主流になるべきなのか? いずれにせよ役割分担だとは思いました。

⇒ 「社会福祉基礎構造改革」が現在話し合われていますが,これによっていくらかは変わるかもしれません。

「授産から就労へ


● 社会資源としての施設は,様々な種類があることがわかりましたが,最終目的である一般就労はなかなか困難だということも知りました。特に健常者であってさえ就職の難しい現実は,障害者の一般就労は不可能に近いのではないでしょうか。不況が来ると,一番立場の弱い者から被害をこうむってしまいます。父の会社でも障害者が受け入れられていましたが,現在はどうなっているのか,聞いてみようと思います。
● 今日の講義で,現状と問題点をいくらか知ることができた。施設は,様々な必要性,あるいは規定によってずいぶん細分化されているということは知らなかった。一般就労を目的とした通過施設については,企業側のうけ入れる体制の問題も絡んでくるし,だいたい,今の産業のスピードにまきこまれ,障害を持つ人が対応しきれているのか,それとも隔絶され,自分のペースでして良い,という企業があるのかどうかも疑問に思う。

」介助関係


● プリントのコメントがすごく興味深かった。特に一枚目の「こんなことを書くと・・・」のコメント。すごい正直に感想だなあと。
● 今日の授業とは関係ありませんが,介助について質問します。私はあきらさん介助をしています。それで今日配布されたプリントにあった「あきらさんはわがまま」というのに目が止まりました。果たしてどこまでがわがままなのでしょうか? あきらさんはグルメなので,毎回介助の度にカスミへ買い物へ行き,dinner のフルコースを作り,ワイン片手にデザートまでを堪能します。正直疲れている時は,ある物で適当にすましてくれればなあと思うこともあります。なぜなら私はごはんにおしょうゆをかけて晩ごはんにしてしまうようなめんどくさがりやだから。それとか耳かきとかもまず綿の耳かきでとり,仕上げに水でぬらした綿棒でふきます。「はい終わり」といっても「まだ」とかやり直しを宣告されることもあり,「ぜいたくなやつめ・・・」と思うこともあります。介助をしていると,それが価値観の違いから出るものか,わがままなのか難しいなと思います。「あきらさん介助」はほとんどあきらさんの魅力とごはんのリッチさ少々で成り立っているような気がします。やっぱり人と人とのつながりだけでは保障しきれないことも多いのでは。何か限界を少し感じます。

⇒ 前にも書いたように,一般的には介助関係(介助を行う理由)というのは幾つかのパタンがあるようです。「理念的な結びつき」「雇用的な結びつき」「個人的な結びつき」など。しかもたいてい一人の中でも複数が絡まりあっている。ですからあなたの言うように「人と人とのつながり(個人的な結びつきカテゴリーに近い)」だけでは限界を感じる,ということも有りうるでしょう。そこで通常は雇用的な関係を構築して補償したり理念的な関係を確認したりする。でなければ関係は薄くなっていくか離れるかしてしまいます。
 ところで私も学生時代はご飯に醤油ということもあったので(ついでにマヨネーズやチーズも加えたりした),気持ちは分かります。結婚してからも残り物で済ませることもあるのですが,さすがに家族に「今日は醤油ご飯にしよう」とは言えない。基本的に家族は気持ちを解きほぐし甘えも許す関係がありますね。しかし“さすがに醤油ご飯とは言えない”という微妙な緊張関係が実は家族内にも有るし,またそれが大切なのだろうとも思います。さて,介助関係というのは緊張関係で言うとどのあたりなのでしょうね? 関係性が単純で無い分,一言では言い表せないでしょうけど,しかし家族関係よりも高い緊張関係を持つのではないかと思います。どんなに個人的な関係(友だち関係)の部分が強くなったとしても介助で入っている以上は一定の緊張水準を持つものでしょう。それを忘れるべきではないと思います。介助関係というのは普通の人間関係(友だちとか)の部分とそうではない部分の混在するやや複雑な関係性ですが,しかし介助という必要性から成立している以上はそれなりの“要請提出”と“要請受領”との関係が必須となるからです。とりわけ介助利用者にとって生命や生活の基本部分に関わる事柄というのは,利用者側にしてみれば「引くことの出来ない部分」となります。「引くことの出来る(適当で妥協できる)」部分もあるけれども出来ない部分も有る。この辺については小山内さんという方の著書が有りますのでご覧いただければと思います(文末参照)。ちょっと挑発的な本ですが面白い本です。本人も認めているように「わがまま」がいろいろ書いてあります。
 そのような部分を認めたうえで次に介助関係における交渉の余地について書きます。一般論としては介助関係にも両者の間に交渉の余地はあるものだと思います。ただ難しいと思うのは,交渉ごとにおいて介助利用者の方が弱い立場に立ってしまいがちだという“関係の傾斜”があるということです。でも交渉である以上は言い分を互いに言い合わなければいけませんね。従って,交渉は率直であるけれどもお互いに信頼関係を持ちながら行うものであろうとも思います(まったく対等の関係でビジネスライクに交渉を行えるとしたら,それはもうきちんとした報酬を受けて行う雇用関係であるべきかも)。
 さて,食事づくりは「引ける部分」か「引けない部分」か? 引ける部分であるならば,交渉の余地もあるのではないでしょうか。“疲れているときにはメニューを変更できないものかどうか?”とね。あなたが“性格的に言い出せないんです”というのもあるかもね。うーーん,それもまた介助関係の難しさのひとつなのでしょうね。
 私もこれで十分に書き尽くしたとは言えません。うまく伝わっているかどうか不安なところも有ります。ここの部分はどこまでも難しい部分なのです。ボランティアという繋がりあいである以上は。最後に繰り返しますと,介助場面というのは一般的な人間関係と介助に伴う関係性とが混在する場なのだと思います。どちらが強いか,というのは It depends です。
 直接話ができればそれも嬉しいと思います。他の方々にしても同じです。

【参考】小山内美智子:あたなは私の手になれますか−心地よいケアを受けるために−.
    中央法規出版,1997.

、その他

● ウィンカーについては,私は親が右にいくか左にいくかを忘れないようにだしているのだと思っていました。いろいろな考え方があっておもしろいと思ったので。

⇒ 私だけじゃなかったのね(^-^)

● 先日,土浦の養護学校へ見学に行ってきました。そこでは小学生から高校生までの知的に障害のある生徒・児童がいました。学校の雰囲気がとても明るく,生徒も明るく,見学して,とてもよい印象を受けました。以前から,障害児の普通学級へ通うか,養護学校へ通うかというところで,受け入れや,親などの方で,多くの問題はあるようですが,そのへんのところを詳しく教えて下さい。

⇒ 小学部,中学部,高等部,と言いますね。いずれにせよ,見学できたのは良い経験でした。詳しく,と言われてもこの話は大きいテーマなので,本来なら障害児教育なり他の授業の中で扱っていただきたい問題です。
 障害のある子どもを普通学級で教育するのかそれとも養護学校あるいは特殊学級・障害児学級に籍を置いて教育するのかは,二者択一の問題でどちらかが正解でどちらかが間違っているように議論されることもあります。前者のような教育措置を統合教育(integration),後者を分離教育(segrigation)と呼ぶこともありますが,果たしてそのような単純な二分法による議論がどこまで適当なのかは私にはよく分かりません。国連のレベルあるいは「障害者の機会均等に関する基準規則」の文脈においては,共に同じ環境の中で教育することを進めるべきであるというようなことが示されているようです。しかしただ物理的に同じ空間で教育するだけだと実質的な教育機会がはく奪される危険性もあります(dumping)。従って,障害のある子どももない子どもも十分に配慮された環境とシステムの中で教育を受ける必要があるのですが,これが残念ながら現在ではなかなか達成されているところが少ないのではないかと思われます。このような状況の中,本人と家族はどのような教育の場で学ぶべきか困惑することになります。
 詳しいことは別の方に託さなければなりません。

● 今日の新聞に,アメリカで使用されている福祉機器展の広告が載っていました。一見するところだと,日本は福祉分野では先進国でないように思われます。福祉に関して先進国はどこなのですか。また,日本のレベルはどのくらいですか。

⇒ どこなんでしょうね,先進国は。ノーマライゼーションの理念を積極的に推し進め,また社会サービス施策を強力に整備していった北欧諸国を福祉先進国と見なすことがよくあるようです。そこを含めた欧米各国に学ぶべき点はいろいろあるのも確かだと思います。例えば単位人口あたりのヘルパー数がぜんぜん違うとか,生活の場の保障のされ方が違うとか,なんだかんだと。
 で,日本のレベルを問われると難しいな。不勉強で福祉水準の比較表のようなものを見た覚えが無い....。ただ全世界の国々と比べるなら,そこそこにサービスが提供されている国だとは思います。もちろん,日本の福祉はだから十分,などと言うことは出来ないですけど。

精神薄弱っていう言葉は,当事者にとって嫌な言葉である(差別語!?)から,やめましょうという動き。これは,いいことだと思う。でも,一方で,ブスとか,受け手を傷つける言葉って日本にも沢山ありますよね。でも,国会で審議されることって決してないですよね。マスコミとかTV番組とかは,身体障害者を美化しすぎよる。24時間番組なんか極めつけ。「みんな同じ人間」といいながら,見ている人は「この人は障害があるのにがんばってる,すごい」って,自分の中で,区別しよる人間はたくさんいると思う。同じ人間だと,悪いことすることもあるでしょ。ジャニーズのかっこえー子が身障者を演じたりして,なんか,そういうのが疑問なんです。何か主旨はないけれど。国家による保ゴ,マスコミによる保ゴ,何か・・・。

⇒ よく言うにしろ悪く言うにしろ,まだ「障害者」をひとつの枠(イメージ)の中に入れておきたいというレベルのようです。画面に障害者が出るとき,彼らはまだ何らかの意味を与えられて(何らかのシンボルとして)出てくる。この件でもそうですが,対象をひと括りにして画一的に語るとき,その対象は自分とは異なるものとしての位置づけが与えられているように思います。特別の意味が付加されることなく画面の中にエキストラ的に出てくるようになってきたら,その時はずいぶんな進歩だと言えるのかもしれないですね。


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