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介助関係等に関する中村氏からの返信  11/13/98


■ワイン付きディナーの事情

 僕の介助者の一人の意見を読ませてもらいました。「介助に行く度に毎回一緒にカスミに買い物に行き、ワイン付きのデザートまでついたフルコースを楽しみます。」というようなことが書いてありました。
初めに一つ誤解を解いておきましょう。毎晩豪華な食卓を楽しむわけではありません。野菜炒め一皿とご飯とか、スパゲッティ一皿という時もあります。介助者が来ない夜は、コンビニで買ってきたパンを足を使って食べてます。
車を持っている介助者には、よく桜のカスミに買い物に連れて行ってもらいます。そこで当分の食事の材料…主に一の矢の売店に売ってない鳥のもも肉やらを買い込んでおきます。
 介助者が車で来ている時も、買い物に連れて行ってもらわない時もあります。一の矢の売店で買い物を済ませる気分の時や、手押し車椅子の操作に慣れていなくて買い物かごを持って車椅子を押すのが酷だと思われる時です。カスミに買い物に連れて行ってもらう場合は、付き添い二人以上で行くよう心がけています。(ここで「付き添い」と書いたのは、「ご飯を一緒に食べるお客」も含めて二人以上ということです。)
買い物に行くためのガソリン代とかはどう考えているんだ? という疑問に対しては、現状ではご飯を無料で食べてもらって償っているとしか答えられませんね。
品物の比較的揃っているカスミですから、普段料理の本を見ていてこれ食べたいと思った料理を、そういう時に試します。その料理の本が「ワインに合うおかず」とかですから、買っておいたワインも開けたくなるわけです。スパゲッティとワインの組み合わせも美味しくて、好きなのです。
 ワインと言っても、ボトル1本 450円から700円程度のワインです。お気に入りでお買い得のワイン(白・やや甘)があって、2本で880円で買える店を知っており、ちょくちょく買って常備していたりします。飲み残したワインを数日間に分けて、炭酸飲料を加えてワインクーラーにして楽しんだりしてます。
デザートは自分も好きなのもありますが、来ている女の人の介助者が十中八九喜ぶので、結構よく買ってつけています。
 それでも、介助者に材料費を請求してませんけど、限られた生活費の中でうまくやりくりしていますよ。

■介助者と料理

 「疲れている時は、ある物で済ませてくれればいいなと思う時がある」とありました。
僕の介助グループは、「おいしい夕食を一緒に食べられる」を売りにしています。「料理を覚えて帰れる」ということでも、好評をいただいております。
 僕にとっても、夜にしっかり介助に入ってもらえる日の食事は、貴重な栄養源なのです。
 以上の理由で、夕食を作ってもらえる時はしっかり作ってもらってしっかり食べています。
 「今日は早く帰りたい」と来た時に言ってくれたら、それなりに対応しています。早くできる料理を頼んだり、品数を減らしたりします。
僕自身「夕飯の買い物」という行為自体が好きなので、介助の人が来た後に一緒に行きます。買う物が決まっている場合は人に頼んで行ってもらったり、介助の人が来る前に自分で売店の店員に手伝ってもらって買い物を先に済ませたりして、料理の時間を短縮させることもあります。
○ケーススタディを一つ
 メニューを相談して決めて、買い物から帰って来てから「明日提出のレポートがある」と言われた時がありましたが、食事の時間がすごく長くなってしまい、迷惑をかけてしまいましたね。部屋にある材料の事情などいろいろな事情があって、あの時はやる事全てに時間がかかってしまった感じでした。料理する人二人で、3品とデザート付きでした。(その時の介助者が、ワインを美味しそうに飲む人なので、調子に乗ってしまったというところもあります。)

☆ここで出てきた「迷惑」という言葉は、予想外の負荷がかかってしまい困惑させるという意味で使っています。後述の迷惑論とは切り離して考えて下さい。

■耳かき

 確かに僕は丁寧な耳かきを要求します。耳かきがうまくできる人も少ないので、ほとんどその2、3人にやってもらっています。
 耳かきを中途半端に終わらせると、終わった直後にまた余計にかゆくなったりしてしまいます。そういう時に「また耳かいて」とは言いにくいのです。その辺のことは説明していなくて頼んでいたのかも知れませんね。
 僕が耳かきを頼むのは、耳かきがうまい人または好きな人かまたは「耳かきをうまくなってほしい人」です。
 「うまくなってほしい人」というのは、その人と少しだけでも余分な時間を過ごしたいという気持ちから出てくるものかもしれません。ですから、耳かきは介助以上の関係かもしれません。
 だけど、本当に耳がかゆくて耐え難い時もありますよ。耳かきが必要なことはわかっておいて下さい。

■わがまま

 僕は血液型はO型ですし、多少わがままなのは認めます。ただ、あの講義に行って話した時に、僕がどんなわがままな点をさらけ出していたのかわからないのですが。
 介助者に出す指示が細かくなることもありますが、それにはちゃんと理由があります。指示ができない部分については、介助者に任せています。
 一つ誤解されているかも知れないので、言っておきます。僕はなるべく介助者に強制はしない頼み方をしています。「やって。」ではなく「やってくれる?」という形です。必要最低限ではないことを頼む時ほど、この傾向が出ます。
 時々強制的にやらなければならない状況(トイレを失敗した時など)を作ってしまって、介助者が嫌な思いを表に出してしまっているのを見ながらやってもらうこともありますけど。

■介助の関係…僕の場合

 「要請提出」「要請受領」などという言葉が出てきましたが、僕の介助者と僕の関係は、僕から見ると少し違うように思えます。
 僕は「この人ならやってくれるな」と思って頼みます。それを嫌そうにやっていたり、断られたりすれば、その依頼は次回からは極力頼まないようにします。
 介助者はそんなつながりや、僕のおしゃべりを楽しんでいて、僕とつながっています。
 これは「緊張関係」というより、「信頼関係」という言葉の方が適当だと思います。
 もちろん、このスタイルには限界があり、一部の「やってくれる」人達に負荷が集まりがちです。ですが、僕はこのスタイルが心地よくて、そのスタイルが心地よいと思える介助者が残っている、そんな感じの関係なのです。

 

■介助の関係と別の人間関係と

 気に入った女の人が介助者になってくれると、ちょくちょく電話をしたり、一緒に映画を見に行ったりしてました。(おー、過去形だ。)
 それを受け取る側もそれぞれです。
 多分一緒に映画を見に行った時も介助の延長として捉えていた人もいたでしょう。僕の方はそれにこだわらず、デートを楽しんでいました。
 介助ということをきっちり考えようとすると、これは一種の公私混同なのでしょうが、ある程度割り切らないと気に入った女の人と仲良くなれないのかなと思うのです。
 電話に関しては、あの頃は加減というものを知らなかったように思えます。何事も加減が大事なようですね。相手に対する気遣いはいろいろなものがありますが、それを一つ一つ学びとっていった時期のことです。

■人に歴史あり

 かなり前のことですが、ある好きな人に会いたいがために介助に急に呼んでしまい、あとで自己嫌悪に陥ってしまった、そんな時もありましたよ。その人とは後に自分の愚かさが原因で最悪の関係になってしまい、それからというもの、人付き合い…特に女の子との付き合いの根本的な見直しが始まりました。
 介助の時間を利用して仲良くなる事を覚えたのも、それからでした。そういう経緯がある事を理解していただきたいです。

■ここで個人的な報告

 以前「彼女はいるんですか?」という質問がありましたが、状況が変わりました。つい先日、彼女ができました。
 サークルで知り合ったのですが、春日に住んでいる人の介助は以前からやっているらしく、食事を食べさせながら一緒に食べるということを、最初から当たり前のようにやってくれました。
 彼女が僕の口に食べ物を運ぶ時、彼女の顔は笑っています。食べさせる事をここまで楽しんでくれる人なんです。
 介助者がいる夜でも、彼女が来たい時には食事に呼んで介助者と一緒に夕食を作って食べるということを、やっていきたいと思います。将来結婚しても、介助者は入れるべきだと思っているので、その予行演習みたいなものです。(結婚相手が彼女と決まってるわけじゃありませんけどね。)もちろん、二人で一緒に相談しながら作って食べる日も作りますよ。
 まだ僕だけで考えている段階なので、実際どうなるかわかりませんが。介助者の承認とかが必要になってくるのでしょうね。

■「生きている」ということ

 項目の順序を逆にしましたが、「生産性のない障害者は国のお荷物」ということを覆す理論はあるかという質問がありました。
 僕の意見を書かせていただきます。
 日本国憲法に「基本的人権の尊重」という項目があります。人として生まれたからには、人として扱われなければなりません。
 「生産性のない障害者」といっても、何かしら魅力というものがあります。第一、親御さんから見たら可愛い子供なのです。
 親御さんに保護されて親の権利として、いろいろな保障を受けたとしても、親が亡くなった後、どうすればいいのでしょうか?
 本人が意思決定できない場合は、親御さんが亡くなる前にしかるべき対応を迫られます。
 本人が意思決定できる場合でも、生きるためのスタイルの選択をできる環境が必要だと思います。(今の日本は、その環境整備が不十分という言い方もできますね。)
 施設への入所も、生きるための選択肢としてあるべきだと思います。またそれと同時に、地域の中で介助を受けながら生活するという選択肢も確立されていないと、十分な権利の確保とは言えないのでしょうか。
 参考までに、こういうことも少し考えて見ましょう。「生産性のなくなった老人は国のお荷物」なのでしょうか。

■迷惑

 「障害者が自立する上で迷惑をかけることになるが、それを正当とする理論を教えてほしい」というような質問があり、僕も考えてみました。一人の介助を受けている当事者の口から言わせてもらうとこうなります。
 まず、僕とこの質問を書いた人の視点に、根本的なずれが一つあると思います。障害者が自立する上で必要とする「介助」を、介助する側がどう捉えているかということです。
 以前の回答にも書きましたが、「人を助けながら・世話をしながら付き合うのが好き」な人がいます。そういう人は、無償で楽しんで介助をしてくれます。本当に好きな人は、介助者を職業として選択して、しかるべき資格を取って介助者のプロフェッショナルとして、賃金をもらいながら介助活動に従事したりするのです。
 あと最近の動きとして、アルバイトとして介助者を募集すると人が集まってくるそうです。この人たちにとっては、「お金をもらえるならやってもいいかな。」または「人の世話が好きだしお金がもらえるならラッキー。」という感じなのでしょうかね。実際話を聞いてないので、これはあくまで僕の想像です。
 そういう人達は、障害者が自立して生きる権利をはっきりとではなくても何らかの形で意識しているでしょう。または介助活動をやっていくうちに、感じとっていくものでしょう。そう願いたいという、僕の希望的観測も入っている見解です。

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筑波大学修士課程 理工学研究科2年 工学システム分野
構造工学系 山海研究室所属
中村 彰 (e-mail:koumei@jks.is.tsukuba.ac.jp)


こんなに自分をさらけ出しちゃっていいの?と問うと,「じぶんのことをもっとわかってもらったほうがいい」との答えでした。


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