序章
現在日本では、1997年の通学区域の弾力的運用についての通知以降、各地で学校選択が導入されつつある。文部科学省の調査によると、現在全国で約1割の自治体が義務教育段階における学校選択制を導入しているという※1。 学校選択制の是非を論ずる場合、肯定的な側面として、学校が選択される側としての意識を持ち自ら改善しようとする意欲を持つようになるということや、選択する側としての親の、子どもをより良い学校に通わせたい、また通わせることになった学校をさらに改善していきたいといった意識が高まり、結果として学校教育全体を改善させる効果がある、という主張がある。 しかし、学校選択において、選択する側は当然そのような選択できる存在であるという前提の下で、議論が進んではいないだろうか。学校選択の主体である子どもや親は完全な情報を持ち、想定される最良の選択しうるという前提はあまりにも非現実的である。例えば、品川区の「通学区域の弾力化」に関するアンケート調査※2では、保護者に対しての調査でも児童に対しての調査でも、学校が近くにあり通学しやすいことがその学校を選択した理由のトップに挙がっている。「通学のしやすさ」が学校改善につながるとは考えにくい。 では、学校選択が進んでいるアメリカにおいて、「学校を選択する」ということの意義ははどう捉えられているのだろうか。特に、多様な人種・民族を抱えるアメリカでは、言語・文化的な面、それに関わり経済的な面が、親が子どもに与える教育を選ぶ際に問題となることが予想される。
そこで本研究では、学校選択の一形態であるチャータースクールが全米に拡がる先駆けとなったミネソタ州を事例として、どのような情報が提供されているかを例示する。
アメリカの学校選択を大まかに分類すると、次の2つにわけることができる。
ここでは、チャータースクールなどを含め、一般の公立学校選択について扱うこととする。
ここから、むしろマイノリティの学校選択率が高く、白人は公立学校を敬遠しがちであることが見て取れる。 |