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日本手話,ろう文化(1)
●手話=日本語ではないということを知り初めて知り,驚いた。きっと手話サークル等の手話も日本語だから,ろう者の手話とは別物なのだろう。このことを知っているか知らないかということはとても重要な気がする。
●自分も手話を単独で勉強しているのですが,見ていて,あれ?っと思ったのは,自分が“口話”との組み合わせの手話で勉強していたのかもしれません。手話に2種類あるというのも初めて知りました。
●手話について“日本手話”があるなんてしらなかった。もっともっと,たくさんのことをしらなければいけないと思った。ある種のカルチャーショックをうけたきもちです。
●手話は,日本語とは違う言語,ということで,ビデオでは,両方つかえる人を,「バイリンガル」だ,と表現していた。ここは日本だから,町中には日本語がたくさんあるし,日本語を使う人の方が多いから,もちろん,日本語も使えた方が便利な面もあるとは思うが,国際社会という状況で,様々な外国語が氾らんしつつある今,手話のみしか使わない人がいても,あまり違和感を感じない。
●今までひどい誤解をしていたことに気がついた。「手話」というのは1つだけだと思っていた。手話の中にもいろいろあって,それがろう者全員に伝わるかといったらそうではない。方言みたいなものでしょうか。日本は単一言語の国ではなかったのだ。ちょっと前,テレビドラマの影響で手話がはやった(?)けど,あれは日本手話なのですか? NHKの手話ニュースは? おそらく口話つきではないかと思うのですが。日本手話は日本語とは全く別の言語だったとは知らなかった。日本語と日本手話を使える人はバイリンガルというんですね。ろうの人達が自分たちに誇りをもって自分たちらしく生きようとする動きが高まってきたことはよかったと思う。ろう者にはろう者の文化があることを知った。日本の中でも「異文化間教育」の問題があったんですね。でも私がどうがんばってもその文化の中に入れないんだなあと思うとちょっと残念です。今まで異質なものを排除したがる日本でこのような動きが起こってきたということは日本も多様性を受け入れることに少しずつ寛容になってきたのかなあと思います。
●時間がなくて,あまり書けませんが・・・。今日のVTRは,少し腹立たしい思いをしながら見た部分がありました。それは,自分に対する腹立たしさでもあり,「ろう」の方々(あるいは「聾」ですね)に対する腹立たしさでもあります。「ろう文化」というもの,「日本手話」なるものの存在を今まで全く知りませんでした。それを自分が知らなかったのは,彼らが自分たちの動きを他の人々に広めようとしなかったからではないか。でも,実はそれは我々,あるいは「聴者」がそんなことに耳をかそうともしなかったから,彼らを理解しようとしなかったからなのかも知れません。でも,国籍の違いによる文化を自然に受容できるのであれば,「ろう文化」もまた自然に受容できるのかも知れません。大切なのは,お互いを理解しよう,という姿勢なのではないでしょうか。
●ビデオを見て,2人目の子供がろうでほっとしたというお母さんの言葉にびっくりしました。耳が聞こえることが普通だと思っているから,子どもも耳が聞こえなかったからかわいそう。とか思ってしまったのです。けれど,授業の中でろう文化の話が出て,もう一度考えてみると,ろう文化を持っている他の家族3人との隔たりができるくらいなら,もう1人の子どももみんなと同じろう文化を持つことができるということの方が親にとったら安心なのかもしれないと思いました。そう考えると,自分の考えは自分中心に見た狭いものであると自覚させられたように思います。
●ビデオの中で,ろうの人が「私達の世界と,健常者の世界は違う」と言っているのを聞き,初めはとても悲しく感じました。自分としては,みんな同じ日本というところに住み,同じ文化を共有していると思っていたので,何か突き放されたように感じたからです。でも,それは健聴者側の勝手な思い込みだったのですね。今までは,ただ単に押さえ込まれていただけだったことがよくわかりました。
●ビデオで出ていた全員聴覚障害者の家族がありましたが,そのお母さんの言葉で「生まれた子が聴覚障害者でよかった」「聴者が生まれたらいやだ」という意味のことを言っていました。が,その言葉には抵抗を感じました。耳が聞こえてもろう者の家で育てば,ろう者の文化が理解でき,かつ,聴者であれば健常の文化も理解できるのに,耳が聞こえないほうがいいという考え方は,その子の可能性を否定することになるから,はっきり言って,親として何ていうことを言っているんだと思いました。
●異分子排除的な日本の中で,ろう者文化を,個別なものとしてしまうのは,危険でもあると思う。
●いろいろ考えることが多く,混乱してきたというのが,今の正直な気持ちです。障害とか,ろうとか単話は知っていたし,意味も知っていたけど,偏見をもっていたような気がしてきた。ボランティアや福祉についても同じである。今,疑問に思っていることや,わからないことをもう少し考えていきたいと思う。
●ビデオを見てろう者と健常者の間の壁は何だろうか,と思った。多勢の健常者の中に1人ぽつんとろう者がいれば,やっぱり会話におくれてしまう。ろう者の人もろう者同士で話をしているときの方がいきいきしていて楽しそうだ。健常者が手話をつかえるようにといっても,自分が普段使わないことを学ぶ人も多くはないだろう。障害者と健常者の隔たりをなくすのは,また障害者の気持ちを考えられるようになることは,本当に難しいことだと思う。
●あきらさんからの返信をよんで誤解していた部分があったことを反省した。彼女ができたそうでよかったですね。なんか二人で楽しそうにご飯をたべているところが想像できてほほえましいです。あきらさんも色々試行錯誤や失敗をくり返して今の彼があるんだなと,当たり前のことなんだけど改めて感じました。やっぱり私,偏見と先入観のかたまりだなぁ,当たり前のことが全然みえてない。自己嫌悪です。かなり。でも,いい勉強になりました。
●違いを強調すること→排他的であることが一直線にならないという,考えに新鮮さがあった。そして,もっと大きな「文化」のレベルに話をシフトさせることができることもおどろきだった。今までの授業で,1番か2番にインパクトがあった。
●他者を理解できるか。私は以前,理解できるだろうと思っていました。それは,理解してもらえるだろうという気持ちから生じていたのかもしれないと最近は思います。いろいろな人の意見や価値観等をきいたり自分の意見や価値観を理解してもらおうと,一生懸命話しても,やっぱり,理解してもらえなかったり,理解できなかったりすることが結構あるからです。そういう人もいるんだなと,思うことが十分だろうと,今はそう思います。
●つくばに来るまでは聴覚障害をもつ人に出会ったことがなかったのですが,ここに来て,よく見かけるようになりました。初めはちょっと偏見もあった気がしますが,最近はそういう人も普通の人と同じように思うようになってきました。この授業を受けていると,障害を持つ人のことが少しずつ分かって,偏見がなくなっていくというか,同じ人間として見られるようになっていく気がします。普段は障害者について考えることもないので,そういうことに目を向けるいい機会だといつも思います。
●授業のはじめに見たビデオもとてもためになりましたが,今日の授業で一番印象に残っているのは,最後の文化,サブカルチャーの話です。私は去年,総合科目の「障害と共に生きる」をとっていて,その時にも同じ話を聞いて,とても感銘をうけたのですが,一年たってもやっぱりそうでした。なにもこのことは健常者と障害をもつ人との間のことだけでなく,1人1人の人間理解においても同じことがいえて,みみっちい私は,深く深く反省するのでありました。