第1章 教員の職能成長のための政策の変遷

 第一章では、アメリカ合衆国における教員の職能成長のための 政策の変遷について、特に現職教育に注目して整理する。本章では主 に牛渡淳『現代米国教員研修改革の研究』第2章、3章、14章を参照して いる(1)

第1項 19世紀から1960年代にかけての動向

‐19世紀

《アメリカ合衆国における現職教育のはじまり》

・コネチカット州における教員講習会の開始

 これは、郡(County)単位で行われ、現職の教員だけでなく教員志願者 も参加していた。つまり、現職教育としての機能と同時に、養成教育と しての役割も担っていたのである。この背景には、師範学校による養成 だけでは教員を十分に確保できない、という実情があった。この取組み は全米に広まり、1890年代には全米の教員の6割が参加していた。

・19世紀後半後 「シャトーカ運動」の拡大

これは文化教育活動とも言われ、研修というよりは民間の啓蒙活動とい う性格を有していた。現職教育の理念的原型とされている。 また、このころから教員免許状の等級制が導入されはじめていたが、ま だ免許状の更新・上進の要件に現職教育は組み込まれていなかった。この ころの現職教育は「未組織の段階」であるといえる。

‐19世紀末 

《免許状の等級制導入と現職教育の拡大》

・19世紀末 公教育制度の拡充

公教育制度の拡充にともない、教員の質の向上が緊急課題となってきた。 そのため、それまで郡当局が保持していた教員免許状の要件と免許状の発 行に関する権限が州教育局に委譲された。そして、試験によって教員免許 状を発券する方式から、師範学校における養成へと切り替えられていった。 そのため、大半の州が慢性的な教員不足に陥った。その対策として、教員 免許状の等級制が拡大した。上級・終身免許状は養成教育によって、下級 の免許状は試験によって免許状が発券されるようになった。そして、下級 の免許状から上級へ切り替えるために、現職教育が必要とされるようにな ったのである。

‐20世紀前半 

《大学における現職教育の拡大》

・第一次世界大戦後 教職の専門職化を求める動きの高まり

多くの州で、教員に学士号を求めるようになった。そのため、学士号を有 していない教員に対しては、免許状の更新時に大学での現職教育の受講を要 求するようになったのである。さらにこのころ、校長・教育長・指導主事の 免許状が教員とは別に設けられ、これらの取得をもとめる教員により、大学 における現職教育の必要性が高まっていった。
 当時の大学において教員向けに開かれていた講座
1.夏期学校・講座・・・シャトーカ運動の流れをくむもの。師範学校が現職教員 にむけて夏期休業中に開く講座等のこと。後に夏期学期の拡大とともに現象。
2.拡張講座・・・修了したものには大学の単位が与えられる。
3.通信教育
4.午後・夜間講座

《学校区の取組み》

1.学校区教育委員会自身による現職教育
 学校区教育委員会は指導主事制度をもうけ、専門職である指導主事が他の 教員を自分たちのレベルまで引き上げることによって教員の資質能力の向上 をはかろうとした。しかし、学校区の規模が小さいこと、教員の離職率が高い ことなどから学校区単位の取組みは定着しなかった。
2.他の機関、個人的研修活動を促進させるための方策
 当時の学校区レベルの取組みとしては、主に大学における現職教育を促進 させるものが主流となっていた。具体的には給与制度改革であり、「単一給 与表」の導入である。これは、給与段階が少なく、比較的早く最高給に達す る給与制度であり、それ以上の給与を得るためには大学・大学院における現職 教育を受け、学歴をあげることが要件とされた。
この取組みは、「学歴偏重」と批判され、勤務成績も加味されるべきだという 要求がなされた。しかし、勤務成績はその測定が困難であり、この方法は徐々 に姿を消した。かわって、一定期間現職教育を受けたことをもって職能成長と する方法がとられるようになった。この方法においては、現職教育において獲得 した単位数が教員の教授能力に比例すると考えられ、また、教員個人の能力の維 持を個人の責任に委ねるべきものと捉えられていた。

・ワークショップのはじまり

1.で述べた指導主事のように、教員に格差をつけ、それにより全体のレベルアッ プを図ろうとするシステムはスーパービジョンといわれた。しかし、教員間に上下 をつけることへの批判が強まり、指導主事の役割はコンサルタントとしての役割へ と変化した。そのような指導主事のもと行われるようになったのがワークショップ である。ワークショップは、日常の実践の中の諸問題やニーズについて、参加者相 互の自主的共同的努力によって解決し、その過程を通じて相互の職能成長を図る、 というものである。このワークショップは、学校区における組織的研修へ発展する 可能性を持っていた。  第二次大戦後、教員不足を解消するために教員免許状が乱発され、現職教育はそ の必要性を高めた。特に学校区におけるワークショップは拡大傾向にあったが、学 校区教育委員会は現職教育に優先的地位を与えず、大学における現職教育にとって かわるほどの発展は見られなかった。

第2項 スプートニクショックからNCLB法までの動向

‐1960年代

《スプートニクショックを受けて》

 1957年にスプートニクショックがおこると、教員の質の問題が改めて問われ るようになった。
   
1958年 国防教育法・・・教員講習会の制度化。夏季2週間の研修プログラムを実施。
1960年〜  ジョンソン大統領による「貧困との戦い」
1965年  初等・中等教育法・・・貧困層の子どもの教育を援助するために地方教育行政 区へ財政的援助を行う。(その援助対象項目のなかに「教員の研修活動」が組み込まれ ていた。)
高等教育法・・・より大規模な初等中等学校教員の量と質の拡大と改善をねらっ た事業を展開することが記されている。事業とは、1.全米教員部隊、2.教員研修フェロ ーシップ、である。
1966年  連邦の教員マンパワー政策の現状と改善策を明らかにするためのタスクフォー ス・・・教員訓練に関する新しい法律が求められる。具体的には、1.全米教員部隊の存続、2. 連邦プログラムを一箇所で管理し、行政能率をあげ、連邦の教師教育プログラムの質的向 上を図る、3.教員の量的確保をめざす、などの方針が挙げられた。
教育専門職開発法・・・先述のタスクフォースを受けて制定された。この法律の理 念は、1.教員開発プログラムの計画・実施・評価を行う際の大学・学校・コミュニティー 間のパートナーシップを促進する、2.教員の訓練と学校改革を連動させる、の2点であり、 マイノリティーの子どもを意識した内容になっている。また、連邦教育局に対し、大幅な 裁量権を与えている。
連邦教育局による「恵まれない若者の教育に関する上級訓練のための全米講習会」 (NIASTDY)の設置
1968年   教育専門職開発法に基づき、連邦教育局内に教育職員開発課が置かれる。
1969年  教育専門職開発法に基づき、リーダーシップ訓練講習会が12箇所で行われる。
   これは、連邦教育局の実施するプログラムについて検討するため、年数回の会 合、現場への訪問調査等を行い、プログラムの目的、資金等について連邦教育 局に勧告を行うことを目的としている。
1960年代後半   「初等教育モデル」の開始
 連邦教育局が強力に開発を進めた教師教育プログラム。9つの モデルが資金提供を受けた。それらは、システマティックな教師教育が意図されていたこ とが特徴的である。この背景には、1.教師教育の現状への強い不満、2.教員の成果を求める アカウンタビリティの要求、があった。

‐1980年代

《『危機に立つ国家』前後の取組み》

1981年  レーガン大統領 就任
 
教育政策の方針のひとつとして、補助金の大幅削減と地方への権限委譲をかかげ、従来使 途を制約していた連邦補助金を州、地方の裁量で自由に使用できる一括補助金制度に切り替え、 大幅な補助金の削減を行った。その背景には、1.補助金プログラムの要件・交付手続きの煩雑さ 、2.運用面での柔軟性の欠如、州・地方のニーズとのずれ、3.プログラムの間に重複が多い、と いった問題点があった。この方針は具体的には「教育統合改善法」に組み込まれ、特定補助金か ら包括補助金への転換が図られた。この法律の制定により、多くの連邦教育プログラムが姿を消 すこととなった。

1981年 「教育の優秀性に関する全米審議会」が、教員の質に対する大衆の批判に応えること を目的として設置された。

1983年 「教育の優秀性に関する全米審議会」が『危機に立つ国家』(A Nation At Risk)を発 表。


 この報告書は、教育の凡庸主義を批判し、教育における優秀性(Excellence)を求める教育 改革プランを提案した。そのなかには、教員養成に高い教育水準を求める、教員の給与の増加、 教員間に職階級を求める、といった項目が挙げられていた。
 この報告書とそれ以降の教育政策の動向は、レーガン大統領の方針を批判したものであったが、 連邦教育費増大対する反対という点では共通しており、教育改革の主導権は次第に州議会へと移っ ていった。


1983年 諸州教育審議会報告書『エクセレンスを目指した行動‐学校改善のための総合教育』
 
このなかには「教師の質的な保障」という取組みもあり、各州で独自の取組みがなされ た。
1.教員養成の基準強化
 教職課程に入る際の能力検定の導入、必修科目・履修単位数の増加など。
2.免許状更新・上進制の整備、現職教育の活発化
3.インターン制の導入
4.教員能力試験の実施
 また、このころ、実践に応じて給与を増やす「メリット・ペイ制」や教員の地位に格差を つけ、給与がそれに対応する「キャリア・ラダー制」などの導入もみられた(2)
 このような、『危機に立つ国家』以降の、連邦や州が中心となっている一連の改革の取組 みを「第一の波」と呼ぶ。

1986年 カーネギー財団 『備えある国家‐21世紀の教員』
 
この報告書においては教職の改善こそが教育改革のかぎであるといわれ、これをきっか けに、より教育の現場に近いところからの改革が求められるようになった。これを「第二 の波」という。

‐21世紀

《NCLB法へ》

 2002年に制定されたNCLB法はこうした流れを受けたものであったといえる。次章では NCLB法において、教員の資質能力向上のためにどのような政策としてどのような政策がと られたのか整理する。


(1)牛渡淳『現代米国教員研修改革の研究』風間書房 2002
(2)赤星晋作『アメリカ教師教育の展開』東信堂 1993
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