第2章 連邦政府奨学金制度史(1) 第二次大戦後から教育修正法まで


(1)奨学金制度の萌芽
アメリカの学生経済援助は連邦政府が乗り出すまでは、州政府を中心として教育機関、民間団体、個人の財源で援助が行われていた。 その後、第二次大戦後の1944年に「軍人社会復帰法」(GIビル)が制定された。これは退役軍人が大学や高校での教育を続けるために、 授業料、生活費、書籍及び必需品代を連邦政府が援助するものであった。
1957年にはソ連がアメリカに先駆けて、人類初の人工衛星スプートニクの打ち上げに成功した。これにショックを受けた連邦議会は、 科学分野の人材育成を重点課題とし、その一環として学生経済援助に乗り出した。それが1958年に制定された国防教育法の制定であり、 国防貸費奨学金が制定された。この奨学金制度は連邦政府資金を低利(発足当初は3%、2005年では5%)で、家計が苦しく就学困難で、 しかも成績優秀な学生に優先権を与え貸与するものであった。
また、1964年には貧困の撲滅を政策の一環として取り上げ、「経済機会均等法」が制定され、ワーク・スタディ・プログラムが開始された。 これは経済援助を必要とする学生に対して、大学の中で働く機会を与え、賃金を支給するものである。発足当時には賃金の約90%を 連邦政府が負担するというものだった。

(2)高等教育法
 1965年に現在のアメリカにおける高等教育に対する経済援助の原型となる「高等教育法」が制定された。 この法律の目的は高等教育における機会均等の実現であった。そして、この法律をもとに2つの経済援助プログラムが設定された。  一つは教育機会給費奨学金である。これは初めての給付奨学金であり、低所得家庭の学生に対して給付を行った。 二つ目は連邦保証貸費奨学金である。これは民間の金融機関が学生に勉学資金を融資する時の保証を政府が代わって行う制度である。 また条件を満たせば利息を政府が援助した。

(3)教育修正法の制定
 1965年の「高等教育法」はアメリカにおける高等教育における高等教育への連邦政府の援助の歴史において画期的なものだったが、 援助の規模においては未だ十分なものでは無かった。特に1960年代末に、学生運動の高揚によって全米的に高等教育機関の間に 財政危機が広がった。この段階で、連邦政府の高等教育援助の二つの方法についての議論が明らかになった。 一つは大学の経常的運営費への援助として与える方法、つまり機関援助である。全米の高等教育機関の団体であるアメリカ教育協議会は この機関援助を求めた。
 しかし、1972年に制定された「高等教育法」の修正法である「教育修正法」では連邦の教育援助は機関援助ではなく、 個人に対する奨学金制度をより充実させ、拡大させるという個人補助の方法であった。この「教育修正法」の制定に大きな影響を 与えたのがカーネギー報告であった。この報告を元に「教育修正法」がつくられ、その法律の基に設計された制度が現在の アメリカ奨学金制度の根本となっている。つまり、カーネギー報告を検討することでアメリカがなぜ奨学金の充実した国であるか、 その原因を探ることが出来ると思われる。

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