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キャリア教育 よもやま話Just Mumbling...

第6話 「お花畑系キャリア教育」は言われるほど多いか? (2016年10月1日)

  •  今回のお題は、「お花畑系キャリア教育」です。

     僕は、日頃から、いわゆる「若者コトバ」を極力使わないようにしています。僕が「若者コトバ」として認識する頃には、当の若者たちの間では既に誰も使っておらず、使えば使うだけ時代の流れに取り残されている自分を思い知らされることになるのがオチだからです。

     でも、中には、言い得て妙だなぁと感心するコトバもありますね。そのひとつが「お花畑」です。言い換えれば、「おめでたい」とか、「脳天気」とかになるのだと思いますが、文字通りバラ色の世界観で世の中を捉えていることを指摘し、花が咲き乱れる空間にいるような幸福感や高揚感を本人が抱いていることを含意しつつ、その人の現実離れした思考を批判する力があるなぁと思いました。「お前(の頭の中)はお花畑か?」と言われたら、多くの人は、かなり凹みますよね。ま、僕個人は、悲観論・消極論ばかりを並べ立てる人よりは、「お花畑」系の人のほうが好きかも、ですが…。

     それはさておき、これまでキャリア教育の実践に対しては、多くの論者から「お花畑だろ!」という批判が向けられてきました。その典型が「夢ばかり追わせている」という指摘です。他にも「現実離れしたキャリア教育」に対する批判は文字通り枚挙にいとまがありません。

     でも、本当に、「お花畑系キャリア教育」の実践は、それほど多いのでしょうか。

     確かに、「偏差値輪切り」に社会的な関心が集まった時期――もう、四半世紀も前です――には、「夢と希望を育む」ことを前面に打ち出した「進路指導の在り方是正キャンペーン」が、当時の文部省によって展開されました。けれども、残念ながら、「受験での失敗を何としても回避しつつ、少しでもいい高校へ・いい大学へ」という親心に裏打ちされた徹底的な進学指導(「入試突破」に焦点を絞った学力の向上と進学先の振り分け)はそう簡単に変容しませんでした。学歴社会・学校歴社会を体現した「日本型雇用慣行」と、「偏差値輪切り」型の進路指導が、いわば一衣帯水の関係にあったからです。いや、実際の両者の関係はもっと密接で、トータルとしての「学校から社会への移行システム」を構成し、終身雇用制を支えていたと言ってもいいかもしれません。

     日本の場合、企業規模が大きくなればなるほど、「新規学卒者一括採用+配置決定+OJT(on the job training)を核とした企業内教育による専門性の付与と人材育成」→「配置転換+企業内教育」→「配置転換+企業内教育」→「配置転換……」が繰り返されます。このような中で、新入社員に主に求められるのは、いかなる分野の企業内教育にも対応できる「地頭(じあたま)」の良さや「従順さ」、そして、新たに出会う先輩諸氏や同僚などとうまくやっていける人間性です。「地頭」の良さについては、入試を突破して「いい高校・いい大学」に入ったことが、「文系科目にも理系科目にも対応できて、言われたことには努力を惜しみません」という証明書みたいなものですから、企業側はまずそこで「ふるい」にかける。企業にとってみれば、自らの労力を費やすことなく、「地頭」の善し悪しがある程度判断できるのですから、まさに「願ったり叶ったり」ですね。そして、その後の面接等で様々な観点から「人柄」を中心とした選抜が行われてきたわけです。

     中学校や高校が、「少しでもいい高校へ・いい大学へ」と生徒の背中を押し続けてきたのは、その後の就職を見越していたからですし、企業内教育による人材育成に力を注ぐだけの企業の「体力」が十分あった経済成長期、少なくともバブル経済の崩壊までは、これで世の中が回っていました。またバブル崩壊後もしばらくは、次なる方向性が模索されつつも、大きく変容することなく、このような慣行が続いていたと言えるでしょう。現在でもなお、いわゆる大企業の一部では、大学生の採用にあたって「学歴フィルター」による「ふるい落とし」がなされているのではないかとの批判や懸念があることは、ご存じの通りです。

     そんな中で、「夢と希望を育みましょう」という文部省の声だけが空虚に響き渡った、というのが1990年代の現実に近いのかもしれません。

     では、なぜ、多くの論者が、これまでの進路指導やキャリア教育に対して、「お花畑だろ!」と批判してきたのか? それは、「お花畑系キャリア教育」が多く実践されてきたから、ではなくて、中学や高校で系統的なキャリア教育と呼べるような実践がなされてこなかったから(あるいは、極めて不十分だったから)なのではないでしょうか。

     多くの中学校・高等学校では、入学初年度において「将来の夢」「就きたい仕事」などに関心を向けさせる教育実践をします。いわゆる「進路講演会」などでも、1年生対象の場合には、「夢を諦めない」などが定番のテーマと言えます。でも、こんなことばかりガッツリやっているか、と言えばそうでもありません。特に普通科高校では、次年度から理系・文系に分かれることが通例ですから、夏休みの後くらいからそのためのオリエンテーションや個人面談は必須となります。総合学科では次年度の履修プランを秋までに立てなくてはなりません。専門高校では、各種の資格取得に向けた取組もなされます。「将来に思いを馳せる」のは、数あるプログラムのごく一部と言えるでしょう。1年生の段階から「当面しなくてはならないこと」は意外に多いのです。これらの「当面の課題」と、「将来の夢」や「就きたい仕事」との関係性について、社会の実際に照らし合わせつつ吟味するための機会が十分設けられているかといえば、必ずしもそうとは言えないのが現実です。

     2年生になると、思いを馳せた将来のことは、さらに脇に置かれはじめます。いわゆる進学校では「受験シフト」の体制が強化されますし、就職希望者の多い高校では就職を意識した指導が一気に加速しはじめます。中学校でも同様です。何しろ2年生は「職場体験活動がメイン」の学校が圧倒的に多いので、つつがない職場体験活動のための事前指導が念入りになされますし、体験活動後は、体験発表会や体験文集づくりに比重が置かれます。

     そして3年生では、中・高ともに、背に腹は替えられない「合格支援」モードに突入です。進学にせよ、就職にせよ、卒業直後の進路希望の達成のために全力が傾けられるわけです。(もちろん、そうではない学校もたくさんあります。数にすれば、100や200を遥かに超える学校が、系統的・体系的なキャリア教育実践に真摯に取り組まれていると確信します。けれども、全国でほぼ1万校ある中学校、5千校の高等学校全体から見れば、未だ少数派に過ぎないのが実態だと感じます。)

     学年が進むにつれ、卒業直後の進路――つまり高校や大学等の上級学校、あるいは就職先――のことだけに意識を集中させ、それ以外の「余計なこと」を考えさせないようにする指導が、他を圧倒してしまうことが問題なのではないでしょうか。

     問題とすべきは「お花畑系キャリア教育」の過剰ではない、と個人的に思います。問題なのは、右肩上がりの経済成長を前提として形成された従来の「日本型雇用慣行」が、現在でも確固として存在しているかのような教育実践、つまり「いい高校・いい大学」に生徒を送り込めばそれだけで生徒も幸せになるはずという信念と親心に基づく指導なのかもしれません。

     無論、第一志望校に合格すれば、第一希望の企業に入社できれば、本人も保護者も嬉しいですし、それは指導している先生方にとっても大きな喜びです。当然、「受からなくちゃ始まらない」ことも事実です。また、受験勉強にがむしゃらに取り組むことそれ自体に一定の価値があることは、多くの先生方が実感なさっていることだと思います。

     でも、それが生徒の生涯にわたる幸せをかなりの程度まで保障した仕組み自体が、大きく揺らいでいることも視野に収めるべきでしょう。…この点については、「よもやま話 第3話 キャリア教育とPDCAサイクル」ですでにある程度は言及していますので、ここで同じことを繰り返すのはやめておきますね。

     進学・就職と目の前に差し迫った事に懸命に取り組んで、入社後は配置された部署で与えられた仕事に懸命に取り組んで、気づいたら定年だった。こんなかつての「王道・男性型キャリア」を歩める人は、もはや多数派とはなり得ません。同じように、結婚や出産までは働いて、その後は専業主婦として家庭を守るというような、かつての「典型・女性型キャリア」も典型とはなり得ない。もはや、従来の王道や典型が「良い」とか「悪い」とか議論をしているだけでは済まされません。日本経済の相対的な後退は否定し難い事実ですし、日本では世界中のどの国よりも急速に少子高齢化が進んでいることも明白です。(基本的に経済成長の基盤は人口増加にありますから、日本の場合、放っておけば経済は後退する一方です。)いわゆる生産年齢人口の減少と高齢者の増加によって、慢性的な労働力不足に陥っていながら、それを非正規雇用で埋め合わせようとしている(あるいはそれに代替する方策を見出せていない)というのが、今日の日本の姿でしょう。こんな状況下において、稼ぎ手一人で家族を養っていけるような人は少数ですし、国にとっても納税者をいかに増やすかが重要課題となって久しい状況です。もちろん、以前通用したやり方に固執していたら何も解決できないのは、日本だけの現象ではありません。急速な社会的変容は地球規模で進行していますから、過去の経験や慣習にのみ依存していたのでは生きていけない現実に世界が直面しています。

     このような中で、目先の喜び(=卒業直後の進路決定)だけを、万世不易の価値であるかのように追い求めていていいはずがない。あたかも、競走馬の意識をレースに集中させ、周囲からの影響に惑わされずに走らせるためのブリンカー(遮眼革)を装着させているかのような実践の今日的な価値・意義・限界・問題等について省みる必要があると思います。その際には、「お花畑」との批判を恐れずに、幅広い視野を養いながら、「その先の未来」に眼を向け、未来を創ろうと努力しなきゃダメな時代に私たち自身も子供たちも生きていることを視野に収めなくてはなりません。

     以下、ちょっと長くなりますが、正確に言い直しますね。

     今日、将来に眼を向けようとすると、一気に悲観的・厭世的な気分になるようなデータや言説があふれています。先に挙げた少子化と日本経済の停滞、非正規雇用率の上昇やそれに伴う低賃金労働の増大などがその典型でしょう。また、人工知能(AI)の高度化によって多くの仕事が人間から奪われるという指摘は、複数の異なるシミュレーションの結果に基づきつつ、ほぼ確定的であるように捉えられています。さらに、2045年頃にはAIが人間の知能を超える「技術的特異点(シンギュラリティ)」が到来し人間がAIを制御できなくなる、というような指摘すらあります。一方、日本国内をちょっとだけミクロに捉えれば、人口減少、とりわけ若年層の減少による「消滅可能性都市」のリスト化など、もうなんだか、お先真っ暗という感じです。「こんな状況で将来に眼を向けようだなんて、お前はお花畑か!」というお叱りが聞こえてきそうですね。

     でも、将来は必ずしも真っ暗ではありません。先日、CNNを見ていたら、人口急増のアフリカ各国での化粧品の販売が飛躍的に伸びていて、大きなビジネスチャンスだというレポートが繰り返し放送されていました。テレビで放送されていたレポートとは異なりますが、CNNのウェブサイトには次のような情報が掲載されています。
    How much is Africa's cosmetics industry worth?

     現に日本のあるメーカーは、アフリカの女性たちの間で支持されている「付け毛」に着目し、爆発的な売り上げをたたき出しているそうです。国内市場だけを見れば先行きの明るくないニュースにあふれていますが、世界的には人口は増加していますから、ビジネスチャンスは山ほどあるのです。
    渡辺清治「カネカの付け毛、アフリカで大ヒットのなぜ」(東洋経済オンライン・2016年9月2日)

     他にも「お先真っ暗」論とは異なる未来展望はたくさんあります。僕の下手な解説は最小限にしつつ、そのいくつかをご紹介します。

     例えば、厚生労働省内に設置された「『働き方の未来2035:一人ひとりが輝くために』懇談会」は、「技術革新は、大きなチャンスをもたらす」をはじめ、巷の悲観論とは一線を画した展望を示しています。
    『働き方の未来2035~一人ひとりが輝くために~』(2016年8月2日)

     また、そもそも「シンギュラリティ脅威論」自体がおかしいよね、という対談が研究者によってなされてもいます。
    中島秀之・松原仁「シンギュラリティで人類はどうなるのか」(nikkei BPnet・2016年8月8日)

     さらに、「少子高齢社会、労働力不足であるからこそ、日本には他国にはない大きなチャンスが隠れていることがわかってくる」と指摘する本も公刊されました。
    村上由美子『武器としての人口減社会:国際比較統計でわかる日本の強さ』(光文社・2016年8月17日)

     仮に、こういった肯定的・積極的な現状認識や未来展望を「お花畑」と一括りにするのであれば、「お花畑、大いに結構」です。現在、指摘される社会的変容に潜在する危険性や脅威を捉えるまなざしが重要であると同様に、それらの変容の持つ可能性や内在する希望の側面をとらえるまなざしも重要です。これらの多様な見方を、これからの社会の担い手である中学生や高校生が「自分ごと」として捉え、多様な見解間の矛盾や対立に悩みつつ、自らの視野を広めながら未来を展望し、未来を構築しようとする意欲を高める支援が不可欠なのではないでしょうか。

     当然のことながら、想定される危険や脅威から自らを守り、また、そういった危機に陥った場合にそこから脱する術を身につけることは必須です。残念ながら、現状ではこの側面に関する実践すら十分ではありません。けれども、そのような「対策」にのみ終始し、未来を切り拓き・創造するための力を培うことを軽んずるキャリア教育であってはならないと思うのです。

     韓国の若者文化等を中心に調査研究活動を行っている民間機関「대학내일20대연구소(20代研究所)」が取りまとめた報告書「글로벌7개국대학생가치관비교2016(世界7カ国の大学生の価値観比較2016)」によれば、韓国・中国・日本・インド・アメリカ・ドイツ・ブラジルの大学生のうち、日本の大学生は「現在の人生についての満足度」「未来への期待度」のいずれもが最も低い結果となっています。しかも、日本を除く6カ国では「現在の満足度」よりも「未来への期待度」の方が高い値を示すのですが、日本だけは「未来への期待度」の値の方が低い。日本の大学生は、明るい未来像を全く描けていないと言えるでしょう。
     ※この報告書は有料ですが、以下のURLからダウンロード(購入)可能です。
     •https://20slab.naeilshot.co.kr/archives/12344
     ※また、クーリエ・ジャポンが当該報告書の概要をまとめています。
     •「未来に絶望しか持てない『日本の若者』」(クーリエ・ジャポン・2016年5月23日)


     繰り返しになりますが、現在の問題は「お花畑系キャリア教育」の過剰にあるのではないと考えます。差し迫った進路決定に焦点を絞り込んだ指導によって、将来の社会の在り方についても自らの未来についても思考を停止し、閉塞的な社会の空気感だけを感じ取っている中学生・高校生の姿こそが問題なのではないでしょうか。そして、大学生になってもその閉塞感から抜け出せずにいる。

     フランス人哲学者のアランは、「Le pessimisme est d'humeur ; l'optimisme est de volonté」という有名な言葉を残しています。単純に訳せば「悲観は気分であり、楽観は意志である」となります。あるいは「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」とも訳せます。いずれにしても、僕個人は、まさにアランさんの言うとおり!だと思います。

     キャリア教育を通して、未来を何としても今よりも良いものにしたい、という強い意志を持てる子供たちを育てたいですし、自分もまたそうありたいと思っています。(…こういうことを言っていると、「お前はお花畑か!」と指摘されてしまいますね。でも、どうぞ。僕は「お花畑」が嫌いではないので。)


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