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キャリア教育 よもやま話Just Mumbling...

第7話 五郎丸さん(2016年10月14日)

  •  今回のお題は、「五郎丸さん」です。

     五郎丸さんと言えば、ほとんどの方は、ラグビーの五郎丸歩選手を思い浮かべると推測します。五郎丸選手の素晴らしい活躍はもちろんですが、キック前のルーティンとして独特なポーズをとることにも熱い視線が集まりましたね。結果は残すし、男前だし、五郎丸フィーバーとも呼ばれたラグビーへの注目を突如として巻き起こしたのは至極当然だったのだろうと思います。現在は、海外のチームに所属されているので、ラグビー自体に疎い上に、テレビもニュース番組程度しか観ない僕のような人間にとっては、最近の活躍ぶりが伝わってこないのがちょっと残念です。

     で、今回の「五郎丸さん」ですが、五郎丸歩選手のことをアレコレ書こうというわけではありません。ここでお話ししたいのは、大学の時の同級生である「五郎丸ナオミさん」のことです(下のお名前は仮名です)。いや、おつきあいしていたわけではありませんよ。おつきあいなんて滅相もない話です。五郎丸さんは、僕のようなちゃらんぽらんな奴とつきあうはずもない、品格漂う清楚な大学生でした。

     僕が五郎丸さんのことを今でも忘れられないのは、僕にとって衝撃的な自己紹介があったからです。

     「五郎丸ナオミです。よろしくお願いします。私は……」

     フレッシュマン・セミナーという初年次必修科目の初回、一人一人の学生に短い自己紹介の機会が与えられました。今では、LINE等々のSNSを通して入学式の前から自己紹介済みなどということも珍しくありませんが、当時はほぼ全員が見知らぬ者同士です。もちろん、大学という場にも慣れていませんから、カチコチに緊張する瞬間だったはずです。順番が回ってきた五郎丸さんは、至極当たり前ですが、まずフルネームを名乗りました。「よろしくお願いします」の部分は「よろしく」だけだった可能性もありますが、品位のある五郎丸さんのことですから、「よろしくお願いします」と言ったに違いありません。でも、今回は、これはどちらでもいい。重要なのは彼女の名前です。

     ゴローマル ナオミ!?

     「五郎丸は下の名前、しかも時代劇に出てきそうな男の名前だろ。こいつの苗字、変わってるぅぅぅ!」――たいへん不謹慎かつ失礼な話ですが、世間知らずの若造であった僕はそう感じました。当時の僕のことですから、笑いをこらえるので精一杯だったでしょう。おそらく、表情を読み取られないようにすぐ下を向いたはずです。いくらアホな若造とはいえ、自己紹介をしている人(しかも女子)に向かって、ぷっと吹き出してしまったらダメだということくらいは分かっていたと思います。いや、そう信じたい。

     それ以来、しばらくの間――おそらく1-2週間だったでしょう――「五郎丸さん」と呼びかけるたびに「変な名前!」と思っていました。相手はクラスメイト(しかも女子)なのに、江戸時代にタイムスリップして殿様の息子にでも向かって話しかけているような気分が抜けずにいたからです。

     でも、そんな感覚は全く長続きしませんでした。入学当初は必修科目が多く、同一の学類(学科に相当します)の学生は多くの授業で顔を合わせます。僕自身はまじめに全部の授業に出ていたわけではありませんが、それでも同じ学類の連中の顔は頻繁に見るわけです。そのような中で、「五郎丸さん、宿題やってきた?」「五郎丸さん、今日の講義よくわからなかったね」「五郎丸さん……」と話しかけているうちに、「五郎丸ナオミさん」は「五郎丸ナオミさん」であって、他の誰でもないし、変でもない、と気づき始めました。と言うより、そもそもの僕の意識が「ゴローマル」という音の集合に向かなくなりました。僕にとって「五郎丸」は当たり前にそこにいる「五郎丸ナオミさん」の姓であり、そこに違和感はみじんもなくなったわけです。

     …こんな取るに足らない思い出話を長々としてしまってすみません。

     翻って「キャリア教育」ですが、皆さんの周りでは、このような声が聞こえてきませんか?

    「キャリア教育」って分かりにくいよね。第一「キャリア」って何だよ。横文字ばっかり多くなっちゃって、ヤだねぇ。 

     確かに、1999(平成11)年に、日本の教育政策関連の公的文書に「キャリア教育」という言葉が初めて登場したときは、かなり奇異に響いたはずです。「○○教育」という表現自体は当時もごく一般的に使われていましたが、「カタカナ語+教育」という用語は異例中の異例だったからです。しかも当時は、「キャリア」という日本語は、「キャリア教育」でいう「キャリア」とは違った文脈で使われることが一般的でした。むしろ、本来のキャリア教育の意義や意図についての誤解を生むような使い方しかされていなかったと言えるでしょう。

     例えば、国家公務員のうち幹部候補として想定される者(かつての国家公務員試験制度における上級試験やI種試験に合格した者)を「キャリア組」と呼んでいたことや、職務上の待遇や地位の向上を「キャリア・アップ」と呼んでいたことなどが、それに当たります。もちろん、現在でもこういった使い方はごく普通になされていますよね。でも、さすがに提唱から17年も経過している今では、キャリア教育でいうキャリアと、これらの日常語との混同が至る所で起きているという状況は脱したようです。

     それでも、やはり、「キャリア」という言葉がどうもしっくりこない、「キャリア組」のイメージが抜けない等々の声が全くなくなったわけではありません。「もっと分かりやすく、ちゃんとした日本語で言えないの?」という疑問を持つ方もいらっしゃると思います。

     でも、これが結構難しいんです。

     釈迦に説法をお許しいただいて、キャリア教育でいう「キャリア」の意味を復習すれば、「生きている間に果たす様々な立場や役割の総称」ですよね。僕個人を例にすれば、大学教員という職業人であることはもちろん、お父ちゃんとしての役割も、夫としての役割も、息子としての役割もあります。さらに細かいことを言えば、文科省等での各種委員としての役割も担っていますし、複数の高校における特定の取組に対する運営指導委員などもさせていただいています。これら諸々が僕のキャリアを構成しており、どの役割にどれだけの時間や労力を振り分けるのかという選択やその後の僕自身の行動が、日々積み重なって僕の人生を形作っていきます。

     そして、こういった諸々の要素は、お互いに影響を与え合いながら、積み重なる性質をもっていることも重要です。現在、僕の両親は健在ですが、仮に大きく体調を崩せば、高齢ゆえに長引く可能性があります。そうなれば、息子として、介護に時間を割くことになるでしょう。場合によっては、大学教員としての仕事の仕方だけでなく、他の役割についても再考しなくてはならない事態を迎えるかもしれません。こういった状況への対応の方法によって、僕の将来のキャリアの在り方は変わっていくわけですし、そういった様々な選択・決定とそれに伴う行動が蓄積されたものがいつの間にか「僕らしい生き方」となっていくわけです。このような中で、職に就いて働くこと(=僕の場合には大学教員であること)だけを切り出して、それだけを対象として「どうあるべきか」を考えることはできませんし、仮にそうした場合には現実から遊離したシミュレーションになってしまうでしょう。

     端的に言えば、キャリア教育でいう「キャリア」は、人生そのもの、生き方そのものです。こういった様々な立場や役割を果たしつつ社会生活を営み、社会参画をする上で、ほとんどの人にとって必須となる「力」を培っていこうとするのがキャリア教育というわけです。つまり、「人間関係形成・社会形成能力」「自己理解・自己管理能力」「課題対応能力」「キャリアプランニング能力」という……おっと、こんなことをズラズラと書いていたら、キャリア教育のテキストになってしまいますね。この辺でやめておきます。

     とまぁ、こんな具合なので、キャリア教育を直訳的に日本語に置き換えるとなると、「人生教育」とか「生き方教育」とかになるわけです。でも、どうも“浪花節”のようなイメージじゃありませんか?

     例えば、「人生教育」とした場合、「艱難辛苦に耐え、苦境を乗り越えてこそ人生だ!」というような精神論を語ることに比重が置かれてしまいそうです。「人生勉強」や「人生相談」などにも当てはまりますが、「人生」という言葉はそれ自体が情緒的・心情的な重心をもっているのかもしれません。もちろん、キャリア教育においてもこういった側面は含まれます。ですが、「人生教育」と言い換えてしまうと、キャリア教育の一部分のみが強調されてしまうおそれがありそうです。

     また、「生き方教育」とした場合にも、同様に「生き方」という言葉のもつ情緒性が勝ってしまう問題が生じます。「いかに生きるべきか」という根源的な問いに常に対峙していなくてはならないような印象を受ける方もいらっしゃるかもしれません。さらに「生き方教育」の場合には、「処世術の伝授」のような含意も若干ながら生じますね。キャリア教育と処世術は無縁か、といえば、そうではないのですが、キャリア教育の中でいわゆる処世術が占める割合は小さなものです。(万一、仮に「処世術」を「姑息な世渡り方策」という意味で使うとしたら、キャリア教育においてそれは、高校等でのディベートや議論の対象になることはあっても、指導の範疇には全く入らないでしょう。)

     キャリア教育が提唱された頃、その語感の「突拍子もない感じ」や、それまでの日常語との差異などがキャリア教育の理解や普及を妨げるおそれがあるとして、独自の「言い換え」をした自治体がいくつかありました。僕は、そのような措置自体は自治体の創意ある取組として評価されるべきであると考えますし、当時の状況からしてやむを得なかった部分も相当程度あったはずです。そして、その呼称がすでに定着している自治体において、今からそれを変更することは必ずしも得策とは言い難いと思います。先生方にとっても、保護者の皆さんや地域の方々にとっても愛着ある呼称であるならば、それを再び「キャリア教育」と言い換えることによって生じるデメリットの方が大きい可能性は十分にあります。

     その一方で、「和語」や「漢語」を使ってキャリア教育を言い換えた場合、特定の側面のみに光が当てられる傾向も否定できないように個人的に感じているところです。もちろん、それは多くの人たち、特に保護者や地域の方々にとって、分かりやすいし、使いやすいものであることは確かです。キャリア教育の実践において、家庭や地域の皆さんからの協力は必要不可欠ですから、分かりやすさやなじみやすさが重要であることに疑う余地はありません。

     さて、これから本格的に我が校でもキャリア教育を実践していくぞ!とお考えの校長先生方。あるいは、うちの自治体でもこれから本腰を入れてキャリア教育の拡充を図るぞ!とご計画の教育委員会の皆様方。「キャリア組」や「キャリア・アップ」の「キャリア」との混同や、外来語の過多を避けるために「キャリア教育」を別の言葉に置き換えましょうか。それとも、言い換え・置き換えによる意味の変容を避けるために「キャリア教育」という呼称のままにしましょうか?

     あくまでも僕個人としてですが、「今、キャリア教育の呼称をどうするか」を決定するとすれば、「キャリア教育のままとする」に「賛成」の一票を投じたいと思います。

     なぜなら、「キャリア教育」は「五郎丸さん」だと思うからです。

     使い続けていれば、当初の違和感は急速に減少すると確信します。保護者の皆さんや地域の方々の中に違和感があるとするなら、その違和感をかき消すほどに使っていけば、キャリア教育という言葉がみんなにとっての「当たり前」になるのではないでしょうか。

     中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会が、8月26日に公表した「次期学習指導要領等に向けたこれまでの審議のまとめ」が示すように、本年度末にも告示が予定される新しい学習指導要領において、小学校からの系統的なキャリア教育の実践が求められることはほぼ確定的な状況です。具体的には、小・中・高等学校、特別支援学校を問わず全ての学習指導要領の総則事項としてキャリア教育の充実が位置づけられるでしょう。このような状況においては、「キャリア教育」を別の言葉に置き換えることよりも、自信を持って使い続けることの方が得策だと考えます。

     もちろん、これからも「キャリア組」や「キャリア・アップ」といった表現は使われていくでしょうし、「キャリア教育」でいう「キャリア」との差異が埋まることはないだろうと思います。でも、ちゃんと使い続けていれば、「単なる多義語だよね」という理解が浸透するのに、それほど長い時間はかからないような気がします。

     急に話題を転換して恐縮ですが、「去る者は日々に疎し」ということわざがありますね。そのオリジナルは、中国・南北朝時代に南朝の梁で編まれた『文選』に掲載される「去者日以疎 来者日以親」だと言われています。「去る者は日に以て疎く 来る者は日に以て親し」。もともとは、「死に去った者は日に日に忘れ去られ、新たに生を受けた者・生きている者に対しては日に日に親しさが増す」という意味だと思いますが、「去者」を「縁遠くなってしまった人」と解釈するなら、「来者」については「通い来る人」と解釈することができるでしょう。頻繁に顔を合わせている人とは自ずと親しくなる、ということですね。心理学でいう「単純接触効果」とも重なります。「キャリア教育」という言葉も、同じかもしれません。躊躇せずに使っていきませんか?

     そういえば、五郎丸さんは元気かなぁ。卒業以来お会いしていませんが、この歳ですから同窓会の機会もおそらくもうないでしょう。何らかの偶然が重なってお目にかかることができたら、真っ先に大学入学直後の無礼のお詫びをしようと思います。 


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藤田晃之

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