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キャリア教育 よもやま話Just Mumbling...

第9話 学びの先にあるもの(2016年11月14日)

  •  今回のお題は、「学びの先にあるもの」です。

     去る8月26日に、中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会が「次期学習指導要領等に向けたこれまでの審議のまとめ」を公表しました。

     今回は、この「審議のまとめ」が、「社会に開かれた教育課程」の実現を目標とすると宣言し(p.1、p.16)、育成を目指す「資質・能力の三つの柱」の一つに「どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか(学びを人生や社会に生かそうとする『学びに向かう力・人間性等』」の涵養)」を位置づけたこと(p.28)に注目します。

     この背景にあるのは、「学校教育がその強みを発揮し、一人一人の可能性を引き出して豊かな人生を実現し、個々のキャリア形成を促し、社会の活力につなげていくことが、社会的な要請ともなっている」という捉え方です(p.9)。このような認識から、次の学習指導要領において、「子供たちに必要な資質・能力を育んでいくためには、各教科等での学びが、一人一人のキャリア形成やよりよい社会づくりにどのようにつながっているのかを見据えながら、各教科等をなぜ学ぶのか、それを通じてどういった力が身に付くのかという、教科等を学ぶ本質的な意義を明確にすることが必要になる」としているのです(p.31)

     つまり、一人一人の子供が、「学校での学びは自分自身の未来につながっているし、これからの社会を創っていく上でも必要なんだ・役に立つんだなぁ」という意識を持てるようにし、それを「学びの意義」として認識できるように指導していこう、ということですね。

     もちろん、このような方向性は、今回の中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会の委員の皆さんによる単なる思いつきで打ち出されたわけではありません。

     国際教育到達度評価学会(IEA)が実施する「国際数学・理科教育動向調査(TIMSS)」や、OECDによる「生徒の学習到達度調査(PISA)」によって、日本の子供たち、とりわけ中学生・高校生は、学校での学習に自分の将来との関係で意義を見出しておらず、学習意欲が低いことが示されてきました。冗長になってしまうので具体的な数値の紹介は割愛しますが、日本の中・高生は、学校での学習に自分の将来との関係で意義を見出している割合においても、学習への全般的な意欲や関心をもっている割合においても、「世界の最底辺」の位置にいます。でも、成績はとてもいい。

     「こんな勉強なんて、やっても仕方ないし、どうせ役に立たないし、面白くないし、気が重い」と、世界でもまれに見るほど多くの子供たちがブツブツ文句を言っていながら、成績は世界でもトップクラスというのが現実です。おそらく、多くの子供たちは、受験に必要だから渋々学んでいるのでしょう。「自分が最終学歴として目指す志望校に合格すれば、この苦しみから解放される。だから、今だけ、堪え忍ぼう。」というのが、中学生・高校生の正直な気持ちかも知れません。このようなプロセスで身につけた知識は早晩彼らから剥落し*、苦役としての学びを回避する姿勢だけが残る可能性は低くないように思います。

    *その一例として、文部科学省科学技術政策研究所が2001年12月に公表した「科学技術に関する意識調査」の結果があります。(いささか古いデータですみません。)詳細は報告書本体に譲りますが、「科学技術基礎的概念理解度国際比較」において、日本の成人の平均正答率が他の国々と比べて低いことが示されました。これが中学生・高校生が世界トップレベルの学力を誇る国の現実とは、にわかには信じがたいような状況です。

     無論、学びを「志望校合格のための一時的な苦役」として捉える認識が、実社会の現実から大きくズレていることは言うまでもありません。

     知識が急速に進展し、技術革新が絶え間なく生まれ、旧来のパラダイムがかつて無い頻度で転換を遂げる社会において、学び続けることは不可避です。また、それらの変化を幅広い知識と柔軟な思考力を伴って受け止め、分析し、次の一手を打つことが求められます。学びを入試突破の手段として捉え、合格後には学びに背を向けるようになってしまっては、その後の社会的な不適応は免れないでしょう。まして、森林資源や地下資源、あるいは、農作物等の輸出に頼った豊かさを享受できない日本において、頼れるのは「知」を基盤とした付加価値のみです。技術力や発想力で世界をリードし続けることは、日本の宿命であると言っても過言ではないと思います。各教科等での学びが一人一人のキャリア形成や社会づくりにつながっていることを実感しつつ、「なるほどなぁ」「面白いなぁ」「もっと知りたいなぁ」と思える子供を育成しなければ、子供たち自身も、その子供たちが支えることになる日本社会も不幸になってしまうのではないでしょうか。

     まさに、「今後の成長のために進んで学ぼうとする力」を育成し、「学ぶこと・働くことの意義」の認識を高めようとするキャリア教育の出番ですね。

     ところが、先日、スマホに配信される情報に目を通していたら「ノーベル賞大隅氏が説く、『役に立つ』の弊害」(小長洋子「ノーベル賞大隅氏が説く、『役に立つ』の弊害―『面白いから研究する』という人が減っている」東京経済オンライン(2016年10月28日))という記事に出会いました。

     記事のメイン・タイトルだけを見ると、「審議のまとめ」が示した次期学習指導要領の方向性と、大隅先生のご意見とが全面的に対立するようですが、実際は違います。この記事で大隅先生が問題としてご指摘になっているのは、短期間で成果を出し、その成果の社会的な有用性を示すことが求められる現在の研究費の在り方です。例えば、大隅先生は次のような指摘をなさっています。(実際には、記者である小長洋子さんが、インタビューをもとにしてお書きになったものですが、ここでは、大隅先生ご本人のご指摘であると理解しておきます。)

    「成果を2年後に出すことを求められると、2年でできることしかやらなくなる。達成できないとおとがめを受けるからだ。おとがめとは、次の研究費をもらえなくなる、あるいは減らされるということ。そうなると研究は続けられなくなる。一度失敗するとネガティブスパイラルに陥ってしまう。そのせいで大きなチャレンジができなくなっている。基礎研究には失敗はつきものだから、敗者復活ができる社会でないといけない。」

    「基礎研究には20年くらいの時間が必要で、せめて10年かけてもかまわないという余裕のある企業トップがいてくれれば、と思うが、難しい。このままでは日本の科学研究が空洞化してしまうのではないかと大変心配している。」

     大隅先生がおっしゃっているのは、基礎研究には数十年単位での長期的なビジョンが必要だということであり、「研究者は研究の先にあるものを見据えなくて良いのだ」ということではありません。事実、この記事において大隅先生は、ご専門のオートファジーの研究が、がんや神経変性疾患などの治療に道を開く可能性があること、基本的な生命機能や高齢化にも重要な関わりをもつことをご説明になっています。

     その一方で、大隅先生が、「そもそも研究というものは、最初から何かはっきりした目的があって始めるものではない。私自身も、医学領域に必ず役立てようなどと考えて始めたわけではない。」「人と違う研究をやりたいと思い、酵母で液胞の膜輸送の研究を始めた。」とおっしゃっていることも重要なポイントだと思います。

     ノーベル賞の受賞が決定した大隅先生のような方を例にして何かを申し上げるのは、僭越極まりないことですが、大隅先生のように知的な関心に基づいて学びや研究のスタートが切れるのは、それだけで素晴らしいとしか言いようがありません。中学生や高校生の頃の大隅少年に、「理科をなぜ学ぶのか、それを通じてどういった力が身に付くのかという、理科を学ぶ本質的な意義を明確にすること」が必要かと言えば、そうではないでしょう。

     学びの神様・研究の神様に愛された大隅少年のような中学生や高校生に対して、当該領域に関する学習意欲の向上を狙ったキャリア教育がしゃしゃり出る必要はありません。いずれ大学生・大学院生となったときに、必ず自らの研究と社会との接点を見据えざるを得ませんから、その機が熟すまでは、あふれる才能の開花を応援しましょう。無論、そういった子供たちはごく例外的であるからこそ、今の学びと将来とをつなぐキャリア教育が必要なのだと思います。

     とはいえ、学びが「役に立つ」というロジックそのものが矛盾をはらんでいると指摘する研究者もいます。例えば、フランス現代思想を軸としつつ、様々な分野で私たちの思考の脆さや矛盾をスパッと指摘してくれる内田樹先生は次のように指摘しています。

    「学校教育の場で子どもたちに示されるかなりの部分は、子どもたちにはその意味や有用性がまだよくわからないものです。当たり前ですけれど、それらのものが何の役に立つかをまだ知らず、自分の手持ちの度量衡では、それらがどんな価値を持つのか計算できないという事実こそ、彼らが学校に行かねばならない当の理由だからです。
     教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育過程が終了するまで、言うことができないということにあります。(傍点省略)」
    •内田樹(2007)『下流志向―学ばない子どもたち、働かない若者たち』講談社、p.46

     その通りですよね。言葉の選び方や論の進め方を含めて僕自身が内田先生のファンだから賛同しているわけではないのですが、本当にその通り。

     僕個人としては、だからこそキャリア教育なのだと思います。

     子供の「手持ちの度量衡」では、学校での学びが「どんな価値を持つのか計算できない」からこそ、君たちの度量衡では捉えきれない価値があるんだよ、ということを伝える必要があるのだと思うのです。

     子供の「手持ちの度量衡」に阿(おもね)て学びの価値を伝えようとすれば、学びは矮小化せざるを得ません。いきなり専門的な話になって恐縮ですが、1970年代のアメリカにおけるレリバンス(リアルな社会や生活との関連性)を重視した教育や、その流れの中でも特に職業との関連性を重視した当時の「キャリア教育運動(career education movement)」が、その後「反アカデミックである」と批判を受けるようになったのは、子供たちの「手持ちの度量衡」に訴えかけることに焦点を絞りすぎたことも大きな原因になっていると思います。(このあたりのことをいつか「よもやま話」でご紹介したいと思いますが、今回は詳細を割愛して先に進みますね。)

     そもそも、学校での学習は子供の「手持ちの度量衡」を更新する営みです。視野を押し広げ、認識を深める(高める)ことによって、新たな「知(=その中核となるのは知識ですが、それを基盤とした技能・技術、規範等々を含みます)」の習得に自ら進んで取り組もうとする子供を育成することが学習指導の役割だと言っても良いでしょう。当然のことですが、「知」は、誰かがどこかで意志を持って創り出したものであり、それぞれの知は別の誰かによって受け継がれ、向上・改善・修正等が加えられつつ蓄積されて、今日の社会をその基盤から支えています。私たちは、脈々と受け継がれてきた「知」の上に乗っかって生活をしているのです。しかも、往々にして、その事実にすら気づかないまま日々を送っています。

     これまた当たり前ですが、これまでの人類の歴史とともに蓄積されてきた「知」の上で暮らしている私たち一人一人には、それぞれが可能な範囲と程度で、その「知」に新たな蓄積を加え、次の世代に渡していく道義的な責任があります。いわば、「知のバトン」を受け取って、次の世代に渡していくことが求められているわけです。(自分たちだけ、先人たちの「知の蓄積」の上で快適に暮らし、その蓄積を消費する一方ではズルいですよね。)

     このような中で、自らが「知のバトン」の受け手であり、次の世代に受け渡していく主体であることに気づかないまま、多くの子どもたちが「一過性の苦役」として学校での学びを捉え、砂をかむような思いで勉強しているとすれば、一刻も早く改善しなくてはなりません。

     デューイが人類の歴史的発展を支えた人間の活動を再評価し、それを基に学校の未来を築くカリキュラムの開発を目指したように、また、ヴィゴツキーが「発達の最近接領域」という概念によって、子供の「手持ちの度量衡」を押し広げる必要性を訴えたように、キャリア教育によって、学校での学習の対象となる「知」と社会との接点を伝える必要性は高いと強く思います。人は、個人個人がもっている「自分の世界」との何らかのつながり(文脈[コンテクスト])を見い出し、自分なりに意味を見つけ、役立つと判断したときに自ら学ぼうとするものだという「コンテクスチュアル・ラーニング」の考え方に立って換言すれば、子供たちの「自分の世界」を捉える視野自体を社会との接点の中で拡大することこそがカギを握ると言えそうです。(…すみません。デューイとかヴィゴツキーとか、コンテクスチュアル・ラーニングなどを詳しく論じていたら、大学の授業になってしまいますよね。大学教員の悪いクセです。この辺で切り上げます。)

     繰り返しとなり恐縮ですが、次の学習指導要領においては、「各教科等での学びが、一人一人のキャリア形成やよりよい社会づくりにどのようにつながっているのかを見据えながら、各教科等をなぜ学ぶのか、それを通じてどういった力が身に付くのかという、教科等を学ぶ本質的な意義を明確にすることが必要に」なります。その実現のために、キャリア教育が果たす役割は極めて大きいと確信します。

     ただし、「学びの先にあるもの」を見据え、そこから「教科等を学ぶ本質的な意義」を認識させようとするような考え方自体が「強者の論理」であり、「強い個人」となり得る資質や環境に恵まれた子供を、社会的に一層有利な立場とする結果を招きかねないとの批判があることも事実です。

     確かに、その可能性を完全に否定することはできないでしょう。教育は、歴史的に見て、ほとんど常に「強者」の側に立ってきましたし、社会的格差の再生産装置であると批判されてもきました。教育的な行為に、常に「強者の論理」が内在することは不可避とも言えます。だからこそ、そうならないための仕組みや支援を並行させる必要があるのだと考えます。

     教育、とりわけ次期学習指導要領が目指す教育の在り方と「強者の論理」との関係については、いつか必ず「よもやま話」でも改めて「お題」にしたいと考えていますが、ここでは、1987年のアメリカ映画「Stand and Deliver(邦題:落ちこぼれの天使たち)」のタイトルだけを紹介しておきます。お手隙の折に、あらすじでも把握しておいていただけたら嬉しいです。

     何らかの教育行為やその理念に対して「強者の論理だ」と批判する場合、その前提には「そのような学習が困難な人や不得意な人(そうならざるを得ない状況に置かれた人)を切り捨てているのではないか」という懸念や危惧があります。でも、そのような懸念や危惧自体が、「あいつらにそんなことは無理」という更に残酷な切り捨てとどこかで通底している可能性はゼロではないかもしれません。

     …今回の「よもやま話」は話題の詰め込みすぎでした。反省しています。「悪しき作文例」の典型ですが、そこは「よもやま話」であることに免じてお許しを!

     寒さがつのる頃となりました。皆様、お風邪など召しませんように。


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