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キャリア教育 よもやま話Just Mumbling...

第10話 強者の論理(2016年11月30日)

  •  今回のお題は、「強者の論理」です。

     前回の「第9話」では「学びの先にあるもの」をお題として、あーでもない、こーでもないとグダグダ書き連ねてしまいました。「文才、ねぇなぁ」と自分でもつくづく思いますが、こればかりは一朝一夕で改善できるシロモノではないので、お恥ずかしいとしか言いようがありません。ご宥恕ください。

     今回は、そこで「宿題」として先送りしていた次の点をめぐって、懲りなくグダグダ参ります。おつきあいいただけましたら幸いです。

     (次期学習指導要領が提示すると予測される)「学びの先にあるもの」を見据え、そこから「教科等を学ぶ本質的な意義」を認識させようとするような考え方自体が「強者の論理」であり、「強い個人」となり得る資質や環境に恵まれた子供を、社会的に一層有利な立場とする結果を招きかねないとの批判があることも事実です。

     確かに、その可能性を完全に否定することはできないでしょう。教育は、歴史的に見て、ほとんど常に「強者」の側に立ってきましたし、社会的格差の再生産装置であると批判されてもきました。教育的な行為に、常に「強者の論理」が内在することは不可避とも言えます。だからこそ、そうならないための仕組みや支援を並行させる必要があるのだと考えます。

     進展する教育改革に対して、「強者の論理」に基づくものであるとの批判が出されたのは1990年代末頃からだったと記憶しています。それらの批判を僕なりに整理すれば、以下の二つの流れに区分けできそうです。

    (1)学校選択制を典型とする「市場的競争原理主義」に基づく諸改革に対して示された、それが「強者の自由権的要求」を満たすことに終始するのではないかという批判、
    (2)学ぶ意欲や興味・関心を育てることを重視する方針に対して示された、意欲・興味等それ自体に「出自による格差」があることを等閑視しているという批判

     前者の批判をクリアに提示した研究者の代表は藤田英典先生(現在、共栄大学副学長・東京大学名誉教授[光栄なことに同姓ですが、残念ながら血縁関係はありません])でしょう。例えば次の「ちくま新書」などが手に取りやすいかもしれません。
    •藤田英典(2005)『義務教育を問いなおす』筑摩書房

     後者の批判を提示した研究者の代表としては、苅谷剛彦先生(現在、オックスフォード大学教授)や志水宏吉先生(現在、大阪大学教授)等のお名前が挙げられます。僕自身、授業等でしょっちゅう紹介する著作としては、
    •苅谷剛彦(2001)『階層化日本と教育危機-不平等再生産から意欲格差社会へ-』有信堂
    •苅谷剛彦、志水宏吉他(2002)『調査報告 「学力低下」の実態』(岩波ブックレットNo.578)岩波書店
    があります。

     前回(第9話)でも引用したとおり、次期学習指導要領は「子供たちに必要な資質・能力を育んでいくためには、各教科等での学びが、一人一人のキャリア形成やよりよい社会づくりにどのようにつながっているのかを見据えながら、各教科等をなぜ学ぶのか、それを通じてどういった力が身に付くのかという、教科等を学ぶ本質的な意義を明確にすることが必要になる」という考え方を前提とするものとなることがほぼ確定的ですし、そのカギを握るのはキャリア教育だと確信します。このような観点から、ここでは後者の批判(上記(2))に焦点を絞ることにしますね。僕の下手な解説を加えていると、グダグダ話がさらに冗長になってしまうので、上に紹介した苅谷先生の単著から少しだけ引用することによって当該批判のエッセンスを「おさらい」しておきましょう。

     (平成10年版学習指導要領が前提としたものを[引用者])図式的に示せば、つぎのようになる。子どもに意味もわからず無理やり知識を詰め込むのではなく、子どもの意欲や興味・関心を高めるように教育を変えていくことで、「自ら学び、自ら考える」個人、「主体的・自律的」に行動できる個人を育てることができるという理解である(p.177)

     だが、意欲や意欲の源泉とされる興味・関心は、各人の心の中だけに存在するのではない。それらは社会的な真空のなかにあるものでもない。各人を取り巻く生育環境やその変化によって影響を受けるものである(p.181)

     意欲を生み出す「自己」、実現される「自己」は、個人をとりまく社会的・文化的環境によっても刻印されている。この事実を忘れると、意欲の低下した人びと、自己実現に失敗した人びとは、その失敗を自己の責任として引き受けなければならなくなる。個性尊重の名のもとで、個人の意欲、興味・関心を中心に「生きる力」を育てようとする教育改革は、自己責任・自己選択の原理を教育の世界に持ち込もうとしている。だが、そうした教育改革の進行と同時に、意欲や興味・関心の階層差の拡大が生じているのである(p.186)

     ここでの最後の引用(p.186)に至る過程で、苅谷先生は、1979年と1997年に実施した高校生対象の調査結果をエビデンスとして提示しています。また、1989年と2001年に小・中学生を対象として実施した調査結果の分析を行った「岩波ブックレットNo.578」においても、「学習意欲・学習行動・学力の階層格差」が明らかとなっているのです。

     ……ということは、「今後の成長のために進んで学ぼうとする力」を育成し、「学ぶこと・働くことの意義」の認識を高めようとするキャリア教育なんてものは、それを実践すればするほど、階層間の格差を押し広げる“諸悪の根源”となってしまうのでしょうか?

     いいえ。全くそうではありません。

     例えば、上に紹介した「岩波ブックレットNo.578」では、在学する児童生徒の「家庭の文化的階層や通塾率」の側面において中位(=普通の学校)でありながら、国語、算数・数学の全般的な成績がとても良い学校(調査対象となった小学校16校・中学校11校中、小・中各1校)を「がんばっている学校」と捉え、学校の「がんばり」によって高い教育成果(ここではいわゆるペーパー試験での好成績)が得られること、つまり、学校からの働きかけが「階層のカベを突き破る」可能性を十分に持つことを示しています。そして、これら2校の「関係者」へのインタビュー等から、両校の教育の特徴を次のように整理しているのです(p.65)

    (1)「学習意欲」や「自学学習」をキーワードとする指導が行われている。
    (2)「個別学習・少人数学習・一斉指導」を柔軟に組み合わせた授業づくりが推進されている。
    (3)子どもの集団づくりを大切にし、「わからない時はわからないと言える」学習環境を作っている。
    (4)家庭学習にも活用できる「習得学習ノート」をつくり、子どもたちが学習の見通しをもち、学習の振り返りができるようにしている。
    (5)「総合学習」等で、子どもたちが「進路」や「生き方」を考えることを重視し、学習に対する動機づけを促している、等。
     家庭学習をしっかりやり、きちんと教えることをいとわない半面、総合学習による学習の動機づけにも成功している。まさに、「全力型」の授業を展開するなかで、学力の下支えが可能になっているのである。

     ここで、キャリア教育の観点から特に注目すべきは、「(1)『学習意欲』や『自学学習』をキーワードとする指導が行われている」「(3)子どもの集団づくりを大切にし、『わからない時はわからないと言える』学習環境を作っている」「(5)『総合学習』等で、子どもたちが『進路』や『生き方』を考えることを重視し、学習に対する動機づけを促している」の3点でしょう。

     「がんばっている学校」では、学級内の「集団づくり(=基礎的・汎用的能力で使われる用語に置き換えれば「人間関係形成」)」に意識的に取り組み、「進路」や「生き方」を考えさせることを通して「学習意欲」の向上を図っている(=「キャリアプランニング」の観点から「学びの先にあるもの」を捉えさせ、各教科等での学びが一人一人のキャリア形成やよりよい社会づくりにどのようにつながっているのかを見据えさせている)と言えるのではないでしょうか。

     「意欲を生み出す『自己』、実現される『自己』は、個人をとりまく社会的・文化的環境によっても刻印されている」からこそ、学校が「階層のカベを突き破る」努力をする必要があるのであり、キャリア教育はその原動力の一つとなり得ると考えます。変化が激しく将来の予測が困難な時代に生きざるを得ない子供たちは、その社会的階層を問わず、主体的に学びに向かい、必要な情報を取捨選択し、多様な人々と協働しつつ試行錯誤をいとわずに問題を発見・解決していく力を身につける必要があります。社会的階層によって「意欲や意欲の源泉とされる興味・関心」における差があるのであればなおさら、その差を放置しておいてはならないのではないでしょうか。むしろ、不利な立場の階層の子供にこそ、学習に対する意欲を高め、将来的にも主体的に学びに向かう基盤となる力を高める支援が丁寧に提供される必要があると思います。

     全くの個人的な経験にしか過ぎませんが、僕の知る限り、キャリア教育に真摯に取り組んだ学校で「学力(いわゆるペーパー試験学力)が下がった」事例は一つもありません。むしろ、「学力の向上」を実感している学校が圧倒的に多いのです。もともと「できる子」の多い地域のみならず、「しんどい子」が少なくない地域でも、キャリア教育の実践は学習意欲の向上に寄与し、結果として学力の向上につながっていると言えそうです。(その一例として、大阪府高槻市立第四中学校区の実践があります。詳しくは、同校区が公刊した『ゼロからはじめる小中一貫キャリア教育』(2015、実業之日本社)をご覧下さい。)

     無論、「岩波ブックレットNo.578」が紹介する「がんばっている学校」のみならず、上に挙げた高槻市立第四中学校区においても、「各教科等での学びが一人一人のキャリア形成やよりよい社会づくりにどのようにつながっているのかを見据えさせる」ことのみ単独で“結果”を出しているわけではありません。でも、「こんな勉強なんて、やっても仕方ないし、どうせ役に立たないし、面白くないし、気が重い」という子供たちの声を耳に入れず、ひたすらに知の断片を子供たちに押しつけるような実践には自ずと限界が生じると考えます。

     先日、ある地域にお邪魔した折に、「このあたりは漁業と林業が盛んです。いわば “とる(獲る・採る)産業“ ですね。だから、勉強なんてがんばらなくても大丈夫、という考え方がどうも強くて……」とおっしゃる方にお会いしました。このような地域では「学びの先にあるもの」を実感させることが難しいという趣旨のご発言です。

     僕は、その方に次のように申し上げました。

     「漁師さんの中には、海底の地形を捉え、海流や潮の満ち引きを計算し、魚の特性の分析を行うことによって、これまで受け継がれてきた経験則による知恵をシステム化して確実に漁獲高を上げている方がいるはずです。また、林業の場合には、林業試験場を中心として長期的ビジョンに立った戦略とその基盤となる研究が蓄積されていると思います。そういった「知」が地元を支え、カネも生み出している事実に触れる機会を子供たちに是非提供して下さい。大人ってスゴいな、知識って必要なんだな、自分たちが学校で学んでいることはこんなところにつながっていくんだな、という実感を持てるようなチャンスは、学校が窓口となって集積しないと子供たちの手に届くところにやってこないのかもしれません。」

     地元の方々のお話は、そのままの形では「学びの先にある姿」として立ち現れないことも多いでしょう。だからこそ、先生方の本領発揮です。事前の打ち合わせを通して、社会を実際に支えている「知」と学校での学びとの接点を探り、両者の「つながり」を子供たちの既習事項や理解力にあわせて「翻訳」するのは先生方の役割だと思います。その「翻訳結果」を伝えるのは、地元の方でも結構ですし、その部分について先生方が引き受ける方策も可能でしょう。もちろん、先生方と地元の方との「コラボ」によるトークセッションや実験なども考えられますよね。ほとんどの学校で実施される「社会人講話」の機会はもちろん、小学校での工場見学、中学校での職場体験活動、高校でのインターンシップなど、今すぐにでも活用できる教育活動は数多くあるはずです。地域の方々による「出前授業」などをすでに実践している学校では、是非とも、あと一工夫を加えてみて下さい。

     昨日(11月29日)、TIMSS 2015(国際数学・理科教育動向調査)の結果が、世界同時に発表されました。今朝の新聞でも各紙が取り上げ、見出しには「小4・中2、過去最高点(朝日新聞)」、「小中過去最高 全教科5位以内(毎日新聞)」等々の文字が並びました。世界に胸を張れる結果だと思います。TIMSS 2015の公式サイトにおいても、「East Asian Countries Widen Global Advantage in Mathematics Achievement at Eighth Grade(東アジアの国々の成績が伸び他の国々を更に引き離す:中学校2年生・数学)」、「Singapore the Top Achiever at Eighth Grade in Science. Japan, Chinese Taipei, Korea, and Slovenia also in the Top Five(中学2年生の理科ではシンガポールが第1位。続いて、日本、台湾、韓国、スロベニアがトップ5に)」等と示されており、日本人として誇らしく感じました。(国立教育政策研究所が発信するTIMSSに関する情報については、次のURLでご覧いただけます。
    http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/sonota/detail/1344312.htm

     でも、とても残念なことに、「数学/理科を勉強すると日常生活に役立つ」「将来自分が望む仕事につくために数学/理科で良い成績をとる必要がある」「数学/理科を使うことが含まれる職業につきたい」等の質問によって構成される「数学・理科の大切さや意義に関する意識」では、とりわけ日本の中学校2年生が世界の最底辺と言うべき状態にとどまっていることが明らかになっています。数学において先の質問に「強くそう思う」と答えた生徒の割合を見ると、参加国平均が42%である一方、日本の場合11%に過ぎず、39の国・地域のうち38番目です。(台湾が10%で最低でした。TIMSS 2011では日本がビリでしたので、「ビリ脱出」という点ではちょっとホッとしますが、全く胸は張れませんね。)また、理科について同じ項目の結果を見ると、参加国平均40%、日本は9%で単独最下位です。(一桁なのは日本だけですので、「悪めだち」している結果です。)

     トップクラスの成績は誇るべきですし、松野文部科学大臣がコメントしているとおり「学校教育全般にわたり教職員全体による献身的で熱心な取組が行われてきたことの成果」であると確信します。でも、砂をかむような気持ちで、何のためにやっているかもわからない知の断片を、(おそらくは受験に勝ち抜くための苦役として達観して受け入れつつ)懸命に身につけている日本の中学生は、世界でもまれに見るほど多いのです。

     受験終了後に知が剥落する危険性を、受験終了後に学びを回避する姿勢を生む危険性を、私たちは改めて視野に収めるべきなのではないでしょうか。


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