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キャリア教育 よもやま話Just Mumbling...

第24話 将来(おそらく)使わないものを勉強する理由 (2017年8月6日)

  •  お久しぶりです。1か月以上、更新が滞ってしまいました。先月実施したマレーシアでの調査の準備や調査自体に集中しなくてはならなかったことに加え、その後は夏の教員研修シーズンに突入してしまいバタバタとしておりました。体調を崩していたわけではなく、単なる能力の不足です。ご心配をいただいた皆様にお詫びと御礼を申し上げます。

     今回のお題は「将来(おそらく)使わないものを勉強する理由」です。

     皆さんは、高校生の頃、「なんで微積分なんか勉強するのかなぁ」って思いませんでしたか?僕個人は、微積分に至るよりも遙か手前、球の体積のあたりで「勉強する意味がわからん!」と投げ出してしまいました。そんな頃、数学の先生が授業中におっしゃった一言は忘れません。「今日は先生が特別にいいことを教えます。球の体積の求め方を一生忘れない方法です。よく聴いてください。『身の上に(3の上に)、心配あるの惨状(4πr3)は、窮(球)したときの体を知る』…どうですか?」

     「どうですか」も何も、数学の時間以外ではおそらく絶対に使わない公式をゴロ合わせで暗記してどうするの?

     こうして、僕の数学転落人生は始まったわけです。毎回の定期試験では「連続赤点記録」を伸ばし続け、その度にクラスメイトから「短期集中指導」を受けて追試を乗り切って高校は卒業できましたが、心優しい友人たちがいなかったら、僕は今頃どうなっていたのか想像もつきません。

     高校生の頃の僕にとっては、全ての教科の全ての授業が無味乾燥でした。例えば、戦いの生々しさも全く感じないまま覚える「戦国の七雄(中国・戦国時代の有力七諸侯国)」もその典型のひとつです。普段は使う機会もない漢字を7つ暗記して、試験の解答用紙に再生して、点数もらって、結局何なの?

     でも、圧倒的多数の同級生たちは、黙々と勉強している。カリカリとノートをとっている。…みんなスゴいなぁ。でも、僕には無理。授業中に感じ続けていた疎外感は今でも蘇ってきます。

     翻って、現在、TIMSSやPISAにおける意識調査によれば、日本の中学生・高校生の学習意欲は世界でも最底辺層をさまよっています。高校時代の僕のような思いで授業中の先生方の説明を聞いている中学生・高校生は今でも少なくないのでしょう。にもかかわらず、TIMSSもPISAも成績は世界のトップクラス。

     「こんな勉強、どうせ将来は役に立たない。意味もない。つまらない。だけど、今は、歯を食いしばって頑張らなきゃ。だって、高校受験、大学受験があるでしょ。」おそらく、こうして中学生・高校生の多くは耐えているのだと思います。偉いよ。君たちは。高校の頃の僕にはできなかった。(けっして、小馬鹿にしているわけでも、揶揄しているわけでもありません。忍耐力と呼ぶべきか、自己統制力と呼ぶべきか、あるいは、単に従順なのかもしれませんが、その実態が何であれ、高校時代の僕にはまねできなかった行為であることは紛れもない事実です。)

     でも、そこには大きな問題が潜んでいることを見逃すべきではないでしょう。

     全ての勉強は受験に通じる。だから先生方も保護者の皆さんも必死に生徒たちの背中を押すし、生徒さんたちも歯を食いしばって耐える。――つまり、教科の学びが入試に合格するための方便に成り下がっているのです。大学受験が終わるまで耐えきれるかどうかの我慢大会とすら言える状況かもしれません。

     …で、大学受験が成功裏に終わった後、教科の学びで身につけたはずの知はどうなるのか? 断言することは当然できませんが、剥落する可能性が極めて高い。合格するための方便ですから、合格後には「ご用済み」です。しかも、そもそも学びに対する意欲も関心も醸成されてきていないので、学びに背を向ける大学生が大量生産されてしまう危険性とも表裏一体です。

     これではマズい。社会そのものが知識基盤社会に突入したと言われて久しく、IoT、ビッグデータ、AIなどの技術革新による第四次産業革命が目前とされる今日、新たな知の枠組みを創り出すことが求められる中で、受験勉強からの解放による虚脱状態とも呼べるような大学生活を送るデメリットは計り知れません。

     だからこそ、次期学習指導要領では、「各教科等での学びが、一人一人のキャリア形成やよりよい社会づくりにどのようにつながっているのかを見据えながら、各教科等をなぜ学ぶのか、それを通じてどういった力が身に付くのかという、教科等を学ぶ本質的な意義を明確にすること」が求められるわけです。

     「でも、球の体積を求める公式も、微積分も、ましてや『戦国の七雄』なんて、キャリア形成にも社会づくりにもつながらないよ。だって実際、そんな知識、使わないもん!」…おそらく、高校生の頃の僕が次期学習指導要領を読んだらこう叫んだでしょう。

     さすがに僕も、その後、四半世紀以上も生きてきたので、高校生時代の自分に向かって「そこの高校生、視野が狭いなぁ」と言うことができます。仮に、日々の暮らしを営んでいく上で必須となる知識(=サバイバルのための知識)だけが有用であるとするなら、ひらがな・カタカナ・ローマ字・常用漢字・単純な四則計算のみが「価値ある知」と見なされ、その他は全て不必要になってしまいます。

     ただし、こうしたサバイバルのための知識を超えた知について、これまで学校教育がその価値や意義を伝えてこなかったこと、むしろ有無を言わさぬ受験圧力に任せて押しつけてきたケースが圧倒的多数を占めてきたこと、そして、それ自体の改善が必須であるという見方そのものについては、現在の僕自身、高校生の頃から一貫して保持していることを改めて自覚しています。そうであるからこそ、次期学習指導要領が示した方向性は価値あるものであると信じているのです。

     では、どうすれば良いのか。

     答は極めてシンプルです。――子供を煙に巻かない。これに尽きると言っても良いでしょう。

     例えば、「先生、どうしてこんなこと勉強するんですか?」と問われたとします。先生方は、普段、どのように答えていらっしゃいますか?

     「大人になれば勉強の大切さが身にしみるよ。」「口を動かしている暇があったら、手を動かしなさい。」「今は問題を解く時間でしょ。やるべきことに集中しなさい。」「そんな余計なことを考えている場合か?受験は目の前だぞ。」

     私たち大人は、こうして、いつでもどこでも誰にでも使える便利な言い回しで子供を煙に巻いて逃げようとします。無論、その場で生徒からの質問に正対する時間的余裕がないケースは圧倒的に多いでしょう。でも、別の機会を設けてその質問に真正面から答えようともせず、うやむやにしたまま、やり過ごしてしまうことが続いてきたのではないでしょうか。

     「先生、どうしてこんなことを勉強するんですか?」――この問いは、「先生、どうしてこんなことを僕たちに教えようとするんですか? 教えてて楽しいですか? 意義を感じながら教えてるんですか?」という問いと同義です。

     つまり、「他でもない、あなたの考えを聞きたい」という生徒の願いが、「先生、どうしてこんなことを勉強するんですか?」という言葉で表出されているに過ぎません。模範解答でなくて良いのです。そもそも、模範解答なんてないかもしれません。「今、私は、君たちにこれを伝えたくて、この授業をしているんだよ。」この気持ちを、子供たちの発達の段階を視野に収めながら、真摯に素直に伝えればいいだけのことです。

     こうした場合、子供たちにとって未経験の上級学年・上級学校での学びや、当該知識の社会における必要性などに言及せざるを得ないことも多いでしょう。そのため、伝えたいことの全容が詳細な部分まで子供たちに伝わるとは限りません。でも、そこを懸命に伝えようとする教師の姿勢と熱意から、子供たちは「自分たちの手持ちの度量衡では推し量れない“何か”が確実にあるらしい。」ということを感じます。そして何より、「この人は、授業が大切だと真剣に思っているし、僕たち・私たちの知の枠組みを押し広げる必要があると信じているんだなぁ」ということは実感できるものです。

     とりわけ、中学校・高等学校の先生方は、ご自身の中学時代あるいは高校時代に、今ご担当されている教科が「楽しい!」と実感されたわけです。そして、大学での卒業論文や大学院での修士論文等で、今教えていらっしゃる教科と何かしら強い関わりのある領域について深く検討され、それ自体にワクワクする知的興奮を感じたわけです。だったら、「3年間の数学の授業の中で、実は、この単元を教えるのが一番楽しいし、みんなにこの楽しさを伝える機会を待ってたよ」と言えば良いのです。

     数学の先生も、英語の先生も、理科の先生も、ある特定単元が「楽しい」と言う。僕にとって・私にとっては見るのもイヤなこの教科だけど、これを楽しいと言い、その楽しさの根源を懸命に伝えてくれようとする人が今、目の前にいる。これは極めて重要なことです。

     この点に関連して、かつてTBS系列のテレビ番組「わくわく動物ランド」や「どうぶつ奇想天外!」に出演し、親しみやすいお人柄がにじむ分かりやすい解説で知られた千石正一氏の言葉を引用します。千石氏は、あるインタビュー記事(「環境教育と生物観察のコツを語る」)の中で次のように指摘しています。
    「まずは大人自身が興味を持つことです。大人が自然に接し、感動していれば、それが子どもたちに伝ぱします。たとえば、空き地で誰かが嬉々として野球をやっていれば、何もいわれなくても『自分もやってみたい』と思うでしょ。それと同じ。」
    ・千石正一「環境教育と生物観察のコツを語る」(2009年9月15日、内田洋行教育総合研究所「学びの場.com」)https://www.manabinoba.com/interview/11357.html

     教員が嬉々として授業を展開しつつ、その「秘密」を生徒たちに伝えることは、果たして授業時間の無駄遣いでしょうか。僕は全くそう思いません。むしろ、「そんな余計なことを考えている場合か?受験は目の前だぞ。」などと言うことの方が、よっぽど時間の無駄使いかもしれません。受験が近づいた時期に、それを敢えて指摘する必要性に迫られるケースがどれほどあるのか、私たち自身が省みるべきであるように思います。

     中学校・高等学校の先生方。先生方が今なさっている授業の一部は、かつて先生がおまとめになった卒業論文や修士論文等につながる接点を持っています。その接点の醍醐味と、卒業論文等の執筆の過程で感じた知的興奮を生徒たちに伝えて下さい。そして、先生方が論文末に記した「今後の課題」についても是非言及して下さい。生徒たちの「今の学び」は、将来の学びにつながり、そして、今日でも未解明の課題にもつながっています。そして、その未解明の課題に取り組み、私たちの社会を根底から支える知を一歩前に進めるのは、他でもない、今目の前にいる生徒たちの世代です。

     「…いや、うちの子たちは、将来、研究者になるような層の生徒じゃないんですよ」

     このようにお感じなった先生方も少なくないでしょう。でも実際に、今、生徒たちが取り組んでいる単元は、大学での学びにつながっていますし、社会を支えている知の基礎的な部分を構成する要素ですし、今後解明すべき課題にも連なる一端を内包していることは事実です。このような体系的な知の全容が生徒たち見えていない(=それを生徒たちに見せようとしてこなかった)からこそ、生徒たちは「こんな勉強、どうせ将来は役に立たない。意味もない。つまらない。」と砂をかむような思いをしているのではないでしょうか。それゆえに、教科の学びを受験の方便として誤解してしまっているのではないでしょうか。

     現在の知の体系の形を変えるような貢献をする可能性のある若者は、ごく少数です。いわゆる進学校と呼ばれる学校ですら、例外的な存在でしょう。でも、今の学びと大いなる知の体系とが連綿とつながっており、その体系の先端には、未だ解明されていない課題が誰かを待っているのだという事実は、どんな子供も実感する必要があるように思います。険しい山道を、その先にある山の全容や頂から見える景色を全く知らされないまま、ひたすら上り続けることができる人はどれほどいるのか。おそらく、その数は極めて限られるのではないかと思います。

     「小学校に勤務する私が教員になった理由は、教科の醍醐味などではなく、子供にかかわる仕事がしたいと思ったからです。しかも、担当している教科は数多い。私にはそれぞれの教科の学びの体系を伝えることはできません。」

     ここまでお読み下さった小学校の先生方の多くは、このような感覚をお持ちになったかもしれません。

     もちろん、ご心配には及びません。先生方が既にご認識の通り、小学校までの学びのほとんどは、子供たちの手持ちの度量衡でその価値が量れる範囲にとどまります。圧倒的多数のケースでは、日常の生活の中での有用性や意義を伝えることによって、子供たちは「なるほどね」と納得するでしょう。

     でも、すべて子供たちの日常感覚にばかり訴えていると、せっかくの学びの体系の入り口を見落としてしまうことにもつながります。例えば分数がそうですね。日常生活では、分子が分母より小さい「真分数」はある程度使いますが、分子が分母より大きいか等しい「仮分数」はそれほど出番がなく、整数と分数の和の形をとる「帯分数」に至ってはほとんど使いません。第一、分母の数が違う分数を足したり引いたりする必要性など、日常生活ではめったに発生しませんよね。ましてや、それらを掛けたり割ったりすることはまずない。

     では、なぜ、学ぶのでしょうか。ここを省略してしまうと、いつの間にか、「分数の割り算は、分母と分子をひっくり返す!」というような有無を言わさぬ力技の授業になってしまいます。こういった授業では、なぜひっくり返すのか分からないまま正解に辿り着いてしまうので、子供たち自身も「できた!」と錯覚してしまいます。こうなると、早ければ小学校高学年、遅くとも中学校くらいで、数学ができない→数学が嫌い→さらにできなくなるという負のスパイラルに巻き込まれるでしょう。(同じような落とし穴は、「速度(速さ)」「時間」「距離」の関係を求める計算の際にも顔を出します。「ハ・ジ・キ」と呪文のようにして公式を覚え込ませてしまうと、「分からないけれど、できる」子供が大量に発生します。)

     こういったとき、「なぜ、私はこの子たちにこの授業をしているんだろう」と立ち止まってみることが大切なんだと思います。幸いなことに、現在、様々な書籍が出版されていますし、ネット上からも多様な情報が得られます。無論、その真偽や価値を判断するのは先生方ですが、「目の前のこの子たち」に何を伝えるべきかというブレない問いをフィルターにすれば、それほど迷われることもないと推察します。

     ちなみに、あくまでも一例ですが、最近公開されたネット上の情報としては、土肥義則「大人になったら使わないのに、なぜ私たちは『分数』を学ぶのか」(2017年7月5日、ITmedia ビジネスオンライン)があります。
    http://www.itmedia.co.jp/business/articles/1707/05/news013.html

     今回は「将来(おそらく)使わないものを勉強する理由」をお題として、アレコレと書いてきました。昨年11月にお届けした「第9話 学びの先にあるもの」の続編です。話題を詰め込むだけ詰め込んでしまった「第9話」の反省にたって、その一部分に焦点を当てた改訂稿のような意図も込めました。もしお時間が許せば、「第9話」もあわせてご笑覧下さると光栄です。 


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藤田晃之

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