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キャリア教育 よもやま話Just Mumbling...

第25話 他山の石(?)としての1970年代のアメリカにおける実践(2017年8月27日)

  •  今回のお題は「他山の石(?)としての1970年代のアメリカにおける実践」です。

     次期学習指導要領の改訂の方向性を示した中央教育審議会答申(「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について」2016(平成28)年12月21日)は、「教科等を学ぶ意義の明確化」の必要性を次のように述べています(p.32)。

     子供たちに必要な資質・能力を育んでいくためには、各教科等での学びが、一人一人のキャリア形成やよりよい社会づくりにどのようにつながっているのかを見据えながら、各教科等をなぜ学ぶのか、それを通じてどういった力が身に付くのかという、教科等を学ぶ本質的な意義を明確にすることが必要になる

     こうした各教科等の意義が明確になることにより、教科等と教育課程全体の関係付けや、教科等横断的に育まれる資質・能力との関係付けが容易となり、教育課程をどのように工夫・改善すれば子供たちの資質・能力の育成につながるのかという、教科等を越えた教職員の連携にもつながる。

      資質・能力の三つの柱に照らしてみると、教科等における学習は、知識・技能のみならず、それぞれの体系に応じた思考力・判断力・表現力等や学びに向かう力・人間性等を、それぞれの教科等の文脈に応じて、内容的に関連が深く子供たちの学習対象としやすい内容事項と関連付けながら育むという、重要な役割を有している。

     ただし、各教科等で育まれた力を、当該教科等における文脈以外の、実社会の様々な場面で活用できる汎用的な能力に更に育てたり、教科等横断的に育む資質・能力の育成につなげたりしていくためには、学んだことを、教科等の枠を越えて活用していく場面が必要となり、そうした学びを実現する教育課程全体の枠組みが必要になる。(下線は引用者)


     「キャリア教育 よもやま話」においてこれまで繰り返し触れてきた通り、まさに「キャリア教育の出番!」ですね。

     でも、このような発想による授業改善を図ろうとする試みは、「世界広しと言えども日本だけ」ではないのです。むしろ、欧米諸国において、数十年前から指向されてきた教育改革の動向のひとつであると言えます。また、日本国内においても、今回の学習指導要領の改訂ではじめて提唱されたものではありません。現行の学習指導要領においても、例えば、小学校の算数科の目標は、

     算数的活動を通して、数量や図形についての基礎的・基本的な知識及び技能を身に付け、日常の事象について見通しをもち筋道を立てて考え、表現する能力を育てるとともに、算数的活動の楽しさや数理的な処理のよさに気付き、進んで生活や学習に活用しようとする態度を育てる。(下線は引用者)

    とされていますし、中学校の理科では次のような指導上の配慮が明示的に求められています。

     科学技術が日常生活や社会を豊かにしていることや安全性の向上に役立っていることに触れること。また、理科で学習することが様々な職業などと関係していることにも触れること。(下線は引用者)

      今回の学習指導要領改訂は、このような発想に基づく授業改善をすべての教科等において実施しようとするものと言えるでしょう。子どもたちが「こんな勉強、どうせ将来は役に立たない。意味もない。つまらない。」と砂をかむような思いをしているのを知っていながら、有無を言わさぬ受験圧力に任せて知の断片を押しつけるような実践はもうやめよう、ということですね。。

     実は、1970年代のアメリカ合衆国(以下、アメリカ)では、このような発想に戻づく教育改革が、「すべての教科等におけるCareer Educationの実施」という方針の下で展開されたのです。まさに、次期学習指導要領の求めるキャリア教育の姿と重なります。40年以上の時を隔てて、日米両国が同じような発想で教育の改善を企図したことは極めて興味深い事実です。

     ……ところがアメリカでは、1980年代に入って間もなく、「Career Educationは学力低下を引き起こす原因の一つである」との強い批判が出されたのです。その結果、70年代に連邦教育省の強い指導性の下で全米的に推奨された「全ての教科等を通したキャリア教育の実践」は、80年代に急速に下火になってしまいました。(無論、その後の多様な議論を経つつ、90年代以降今日に至るまで、キャリア教育は様々な教育活動を通して実践されていますが…。)

     そこで今回の「よもやま話」では、1970年代のアメリカにおけるCareer Educationの実践が、後に学力低下を引き起こすと批判された原因についてまとめておきたいと思います。今後の日本におけるキャリア教育が、1970年代のアメリカの二の舞になってしまっては元も子もありませんからね。(これ以下の記述は、主として、すでに公表している拙稿からの部分的な要約あるいは引用となります。ご関心のある方は、
    ・藤田晃之(1991)「1980年代アメリカにおける『キャリア開発教育』の特質―キャリアエデュケーションの問題点との関連で」日本比較教育学会『比較教育学研究』第17号、東信堂
    ・藤田晃之(2014)『キャリア教育基礎論―正しい理解と実践のために』実業之日本社
    をご高覧いただけましたら幸甚です。)

     ここでは、当時のアメリカにおける具体例を二つ挙げながら、慎重に避けるべき方策とその理由を説明します。

     まず、数学で一次関数を扱う単元の最終の時間を想定してみて下さい。授業の冒頭、先生は当該単元の学習を振り返り、それに続いて、最後の練習問題として、トラックの走行距離とガソリン消費量との関係に関する出題をします。生徒一人一人が表、式、グラフなどを求める時間を確保した後、答え合わせを行いました。その後、生徒たちの前にゲストスピーカーが現れます。長距離トラック運転手です。その運転手は、迅速で確実なトラック輸送を実現する上では、ガソリンの残量をもとにあらかじめ給油の場所とタイミングを把握しておくことも重要であることを説明します。一次関数の知識とそれを活用する力が、トラック運転手としても必須であることを強調するわけです。そして、それに引き続き、長距離トラック輸送の果たしている役割、運転手になるために必要な資格、平均給与、勤務の実態、プロとしてのやり甲斐等についても説明し、生徒との質疑応答で授業が締めくくられます。

     次に、数学の微積分の単元を想定して下さい。同じように、単元のまとめの時間に、大学で社会学を専門とする教授が招かれ、調査結果の分析には微積分の知識が欠かせないことを説明します。あるいは、社会科(公民科)で、価格形成の原理としての需要・供給曲線を扱う際に会社経営者が招かれるという状況を想定していただいても結構です。

     これらの実践は、当時のアメリカでは「優れたキャリア教育の取組」とされ、全ての教科の全ての単元における実践が奨励されました。各地の拠点校等での取り組みが広く紹介されるに伴って、全米に普及する勢いも見せていました。けれども1980年代に入る頃からこのような実践に対する批判が噴出する事態を迎えます。

     まず、「全ての教科の全ての単元で」という方針の下で前者のような実践がなされたことに対して、「本来の教科指導に当てる時間を侵食している」との指摘がなされました。また、後者のような実践に対しては、「社会学の研究者にならないのであれば微積分は必要ない」あるいは「会社経営者にならないのであれば価格決定原理の知識は必要ない」というメッセージが同時に発せられ、そういった職業に関心や興味のない生徒たちの学習意欲をかえって引き下げるおそれがあると指摘されたのです。

     では、日本の次期学習指導要領が求めるキャリア教育は、失敗に終わることが目に見えているのでしょうか?

     いいえ。全くそうではありません。少なくとも、僕個人は、そうではないと信じています。

     1970年代におけるアメリカの実践が残してくれた「教訓・その1」は、教科・科目の授業時間の配分の失敗です。極端に言えば、各教科の大単元ごとに社会人講話を組み入れているような状況に対して、「本来の教科指導に当てる時間を侵食している」との批判が出されたわけです。

     TIMSSやPISAが明らかにした日本の子供たちの脆弱な学習意欲や、「学校での学習」と「自分の将来」との断絶の現状を踏まえれば、学校での学習(あるいは学習成果)の職業的な応用に眼を向ける実践は、積極的に取り入れられるべきでしょう。特に、子供たちが「どうして○○なんか勉強するんだろう」と疑問に思いがちな単元や題材を扱うタイミングを狙って、子供たちが容易には思いつかないような職業的応用の現実を教員が紹介し、子どもたちの認識を新たにする契機とすることが求められます。こういうときこそ、インターネット上の多様な情報の活用なども視野に収めたいですね。

     その一方で、すべての単元末に丸々1時間を割いて社会人講話を組み入れていたのでは、標準授業時数内で学習指導要領が定める内容を扱いきれなくなる懸念すら生じます。僕個人としては、地域の産業や経済の状況を視野に収め、地域の教育力を活かしつつ、各教科・科目で年に1回くらい、「ここぞ」という単元等においてこういった実践をする方策であれば十分可能であるし、むしろ望ましいと思いますが、皆さんはどう思われますか?

     次期学習指導要領では、学級活動・ホームルーム活動において、小・中・高を貫く「(3)一人一人のキャリア形成と自己実現」が設定されます。仮に、各教科等において年に1時間たりとも社会人とのティームティーチングを実践することが難しいとしても、学級活動・ホームルーム活動の「一人一人のキャリア形成と自己実現」において、実社会で活躍する職業人の生の声を交えながら、学校での学びと社会生活や職業生活との接続を踏まえた学習意欲の向上の機会を設定することは必要なことであると考えます。

     さて、1970年代のアメリカにおける実践から私たちが学ぶべき「教訓・その2」に移りましょう。それは「学校での学習(あるいは学習成果)の職業的な応用の側面のみを強調しすぎると失敗する」というものです。これは、今後の日本のキャリア教育実践にとって極めて重要な教訓であると思います。

     学校での学びが特定の職業に顕在的・具体的に活かされることのみを追究していけば、特に高等学校での学びが結びつく先は、高度な専門知識を必要とする職業に偏りがちになります。「僕はそんな職に就くつもりはない」と生徒が思ったとたん、このような取組は裏目に出ます。まさに、1970年代のアメリカにおける実践の一部が陥った落とし穴がこれでした。

     でも、そういった高度に専門的な職業人たちが果たしている社会的な役割――彼らが携わっているからこそ生み出された製品・サービス・情報など――と切り離しては考えられない私たちの生活そのものに生徒たちの眼を向けさせた場合、話は変わってきます。

     私たちが日々の生活で利用しているモノやサービスはすべて、人間の英知の結晶ともいうべき性質を持っています。例えば、蛍光灯が光るのは高校の物理で学ぶプラズマの放電現象によるものです。また、エアコンで部屋が快適になるのは冷媒を使った熱交換によるものですから、ここでも私たちは物理と化学のお世話になっています。車が走るのもガソリンを爆発させて生じる膨張圧力を動力に変換した結果ですから、物理と化学の知を極めて高度な工業技術で加工した産物と言えます。さらに、スマートフォンや携帯電話は、数学と物理と化学の塊に人間工学と美学とマーケティングをミックスさせ、最先端の工業技術によって生み出したものです。高級レストランのディナーの際に白色光が使われないのは心理学の応用ですし、接客の極意である「おもてなし」のひとつひとつも心理学によって裏付けされ、洗練されていきます。

     さらに見方を変えれば、東南アジア、南米、アフリカ諸国で生産された衣服を私たちの多くが身につけているのは、公民科で扱う南北問題、すなわち地球規模での経済格差に由来する部分が少なくありません。このように今後の知の蓄積によって解決すべき問題も、私たちの身近に数多くあります。自分の下着一枚ですら南北問題と深く関わっており、グローバルな知のさらなる集積を要請する事象の一端であることを、どれほどの高校生が実感しているでしょうか。

     こうしてみると、私たちは、知の膨大な蓄積の上にあぐらをかいて、快適な生活を送っていることが改めて分かります。そして、私たちの次の世代にこの暮らしを引き継ぎ、それを一層快適なものとしていくためには、私たちの足元の知をさらに高めていく以外に道はありません。当然のことながら、私たちの生活を支えてくれている知は、誰かの努力によって生み出され、また別の誰かがそれを発展させ、そしてまた別の誰かがそれを引き継いだことによって蓄積されました。知は、人の手によって蓄積されてきたものです。

     私たちの快適な暮らしは、人間が長い歴史の中で様々な分野の知を積み重ね、洗練し続けた結果によって成り立っています。それを享受して日々の生活を営んでいる以上、私たちには、知の蓄積のバトンを引き受け、次の世代に向けてさらなる蓄積を続ける道義的責任があります。

    「君は、どのバトンを引き継ぐんだろう?」

     高等学校におけるいわゆる普通教科の学習と「自分の将来」との接点は、こうした視点から捉えさせたいものです。さらなる蓄積をすべき知の分野は文字通り無数にあります。高等学校における普通教科の各単元は、それらの入り口の一端を切り取って高校生に提示しているとも言えるでしょう。高校生の未熟な視点からは、それらを「入り口」であると捉えることが難しい場合も少なくありません。だからこそ、キャリア教育によって、それが「入り口」であることを認識させる必要があるのです。そして、その「入り口」の向こう側には、「君の出番を待っているバトン」があり、そのバトンは、基礎研究レベルからモノやサービスの開発・提供に至るまで多様に存在することにも、是非、気づかせたいと思います。

     今回は「他山の石(?)としての1970年代のアメリカにおける実践」をお題としましたが、「他山の石」の後に「(?)」を付けたのには理由があります。

     現在、卒論に取り組んでいる学生の一人が1970年代のアメリカの実践に焦点をあてて研究を進めています。その結果、「藤田の指摘は間違っている!」という成果が出てくる可能性は十分にあります。「間違っている!」と正面から言われることは研究者にとっての宿命であると当時に、そのような発見の土台となったという点で栄誉であると考えています。こうした若いエネルギーを目の当たりにできる大学教員という職業も悪くないなぁと改めて思いました。 


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藤田晃之

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