本文へスキップ

Welcome to Fujita's Lab!

〒305-8572 茨城県つくば市天王台1-1-1 筑波大学人間系

キャリア教育 よもやま話Just Mumbling...

第35話 「教員が対話的に関わること」の意味(2018年4月11日)

  •  今回のお題は、「教員が対話的に関わること」の意味です。

     前回のよもやま話でご報告した右手首の骨折の件では、ご心配をおかけしております。おかげさまで、手術も無事終え、現在、指はほぼ問題なく使えるようになりました。一方、手首の可動域はそう簡単には大きくならず、毎週、激痛のリハビリに通っています。担当してくださっている作業療法士のTさんは、とても気さくでありながら、細やかな気配りもしてくれる素敵な青年です。ですが、「ちょっと痛いですよ」と言いつつ、「ちょっと」の水準を遙かに超える痛みを伴う動作をさりげなくするので、Tさんの前で僕は、文字通り手に汗を握っている状況です。(おっさんの汗ばんだ手を握ったり引っ張ったり曲げたりするTさんも、仕事とはいえ、さぞかし苦痛だろうと思いますが…。)

     現在僕は、Tさんの指示に従いつつ、「手首の可動域拡大!」と自らに言い聞かせて日常を過ごしているわけですが、この過程で、怪我をするまで全く気づかずに過ごしてしてきたことの多さに改めて驚きました。

     例えば、利き手が全く使えなかった時期には、着替え一つにも際限なく時間がかかり、悪戦苦闘の末、シャツのボタンを自分でとめることができずに愕然としました。僕は自分一人で自分の人生の責任を負えるようになりたいと常日頃から思ってきましたし、今もそうありたいと願う気持ちが残っていないと言えばウソになりますが、手首の骨を折っただけで服も満足に着られない現実に直面し、「今までのオレは中二病か…」と自己を見つめ直しました。

     また、少し快復してからも、駅の自動改札、ズボンのチャックの前の布(「ジップ・フライ」と呼ぶそうです。ちゃんと名前があったのですね!)、自販機のコイン投入口、ハサミ……等々、身の回りの多くのモノが右利き用にデザインされていることの不便さにことごとくぶち当たり、右利きドミナントな社会の有りようの傲慢さにハッとすることばかりでした。

     ……こんなことを書いていると際限がありませんが、今回の怪我が、自分の視野の狭さや度量の小ささを再認識する契機となったことは疑いありません。

     今回の「よもやま話」では、右手首の怪我を通して僕が学んだあれこれの中でも、特に印象深いことをお話しします。それは、お題の通り「教員が対話的に関わること」の重要性です。

     僕にとっての現在の“師匠”は、言うまでもなく、作業療法士のTさんに他なりません。まだ20代後半のTさんですが、彼が僕に対して発する言葉の力は本当に大きいなぁとリハビリに行く度に実感します。

     Tさんの言葉を思い返すとき、僕の頭の中に同時に浮かんでくるのは、今回の学習指導要領改訂の方向性を示した中教審答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について」(2016年12月)における次の指摘です。

     子供一人一人が、自らの学習状況やキャリア形成を見通したり、振り返ったりできるようにすることが重要である。そのため、子供たちが自己評価を行うことを、教科等の特質に応じて学習活動の一つとして位置付けることが適当である。例えば、特別活動(学級活動・ホームルーム活動)を中核としつつ、「キャリア・パスポート(仮称)」などを活用して、子供たちが自己評価を行うことを位置付けることなどが考えられる。その際、教員が対話的に関わることで、自己評価に関する学習活動を深めていくことが重要である。(p.63 、太字・下線は引用者)

     以下、Tさんの魔法のような言葉の力について、二つの例を挙げてご紹介します。

     僕の目下の苦手事項ワーストワンは、前腕を回転させる動き、とりわけ手のひらを上に向ける「回外」と呼ばれる回転です。これをやるたびに、腕の外側(尺骨側)が引きつられ、声を上げてしまうくらい痛い。…こんな動き、できないままでもいいんじゃないか、と逃げ腰になってしまいますが、そんな僕の気持ちを見透かしたに違いないTさんは、先週のリハビリで僕にさりげなくこう言いました。

    「藤田さん。コンビニでお釣りがもらえなくなっちゃいますよ。がんばりましょう。」

     その時はなるほどなぁ程度にしか思いませんでしたが、その日の夜、実際にコンビニで買い物をした時、当然のように左手で釣り銭を受け取っている自分の動作を改めて認識しました。当時の僕の右の手のひらは、どうやっても釣り銭が乗る角度にはなりませんでしたし、仮に受け取ろうとしたとしても痛さがそれをブロックする状態でした。

     でも、そのお釣りを財布に収めた瞬間、Tさんの指摘の意味がクリアに腑に落ちたのです。――そうか。コンビニで釣り銭が滑り落ちないレベルをまずは目指せばいいんだな。

     達成すべき具体的な目標を得た僕が、前腕の回転トレーニングを毎日一層意識してするようになったことは言うまでもありません。

     そして、昨日。コンビニで釣り銭を受け取る際、僕は思い切って右手を出してみました。手のひらが水平になったとは言えませんが、釣り銭を落とさずに財布に入れることができたのです! 本当に小さなことですが、実にうれしかった。前腕の回転状況だけを眼で捉えた場合、それが改善しているのかどうかは判然としません。けれども、実際に、釣り銭は右手から滑り落ちなかったわけです。この歳になっても、努力すれば進歩できるものなんだなぁと実感しました。

     実現可能なスモールステップでゴールを設定し、しかも、ゴール達成の瞬間を本人自らが認識しやすいように提示するというのはコーチングの基本です。ですが、それを「目の前のその人」にフィットする表現に落とし込んで示すことは簡単ではありません。すげぇな、Tさん。。

     前腕の回転に次いで現在の僕が不得意な動作。それは、掌屈(手首を手のひら側に曲げる動き)と背屈(手の甲側に曲げる動き)です。前腕の回転は強い痛みが伴うので苦手なのですが、掌屈と背屈は痛みそれ自体よりも、手首が物理的な意味で固まっていて動かしにくいのが厄介です。特に背屈は、手首の大きな手術痕を引き延ばす形になりますし、骨を固定している金属プレートやボルトのことも気になって、挑戦すること自体が怖いというのが正直なところです。

     Tさんによる掌屈と背屈のリハビリは、前腕の回転のように豪快ではありません。ゆっくり力をかけつつ、どこに痛みが出るのかを検証しながら力の入れ具合を調節しているように感じられます。僕の表情が変わると「痛いのはどこですか?」「どんな痛みですか?」と必ず尋ね、痛みが出た部分をTさん自身の指で様々な角度から押して「こうすると痛いですか?」と確認します。その結果を逐一メモしてから、また掌屈と背屈の動作に戻る…これを繰り返すわけです。

     先週、Tさんは、こうして入念にとったメモを確認しながら「大丈夫。怖がらずに曲げ伸ばしをして大丈夫です。動かしても手首の骨に影響が及んでいる状態は一切確認できませんでした。後は固まっている筋肉を丁寧に伸ばすだけです。傷跡も一緒に動かしてしまって、全く問題ありませんよ。」と言いました。

     その後Tさんは、僕の手を実際に使いながら、掌屈と背屈によって痛みが出た場所とその理由について丁寧に説明し、自宅でのトレーニングの方法を具体的に示してくれました。

     手術の傷跡を引き延ばすことへの患者側の不安を前提としつつ、骨・筋肉・神経の構造と機能を熟知したプロとしての判断を下しながら、その結果を、患者に分かりやすい言葉に置き換えて伝えるTさんのスキルの高さに、僕は感動しました。

     作業療法士にとって、医学的・生物学的に正確な知識と、機能回復のための多様な運動の選択肢を有していることはもちろん必要です。Tさんがすごいのは、それらの専門的な知識や技能に加えて、僕の不安や疑問を察知する感性と、プロとしての判断の結果を僕が納得できるように伝えるための表現や話しぶりを適切に選び取る力量を同時に持っている点です。

     Tさんの的確な指示のおかげで、僕は自宅でも全く不安なくトレーニングができています。やみくもに言われた動作を繰り返すのではなく、動作の意味と目指すべき結果を認識しながらであるからこそ、「痛いけど、がんばろう」と思えるわけです。

     残念ながら、現時点の右手首の可動域は、怪我をしていない左手首のそれとは比べものにならないくらい狭いままです。でも、Tさんがサポートしてくれるのであれば、いつかは元に戻りそうな気がします。僕がこう思えるのは、Tさんの「対話的な関わり」による部分がとても大きい。これは僕自身が強く実感する点です。

     もちろん、病院でのリハビリの過程で、Tさんは僕に向かって「あ、いいですね」「そうです」「その調子です」と、短い励ましの言葉も多くかけてくれますが、仮にこのような定型の言葉がけしかなかったとしたら、僕は一気にやる気をなくしていたでしょう。リハビリの痛みに腹を立て、心の中では「適当な気休めを言うな!」と叫んでいたかもしれません。

     今般改訂された学習指導要領に基づくキャリア教育実践では、様々なキャリア教育に関わる活動について、学びのプロセスを記述し振り返ることができるポートフォリオ的な教材(キャリア・パスポート(仮称))の作成やその振り返りを通して、児童生徒一人一人が自らの学習状況やキャリア形成のプロセスを確認し、それを踏まえながら将来を展望できるように支援する活動が求められます。

     言うまでもなく、児童生徒の成長・発達は、直線的な階段を上るようには進みません。停滞も、紆余曲折も、場合によっては一時的な後退も当然あり得ます。そしてそれらの「しんどい状況」自体が、長期的に見れば、その子の成長にとって意味のある過程となることも少なくないのです。また、本当は確実な成長を遂げているにもかかわらず、本人がそれを自覚する術をもちあわせていないため、自信や希望を失ってしまうような状況も容易に想定されるでしょう。

     そんな時強く求められるのが、教師による「対話的な関わり」ではないでしょうか。

     この点について、この「よもやま話」第26話「『キャリア・パスポート』がやってくる!?」では次のように書きました。全く芸のないコピー・ペーストで恐縮ですが、引用します。

     とりわけ思春期の時期には、それまでの安定した自己像が大きく揺らぎ、自分の存在に価値を見いだせず、目標を見失いがちな生徒も多くなります。同時に、自己開示に慎重になったり、大人の視点からは些細なことのように思える出来事をきっかけに自己嫌悪に陥ったりすることもごく一般的に見られます。このような時期に「キャリア・パスポート」に記録を残したり、それを振り返ったりすることを避けようとする場面が生じることもあるでしょう。そのような時こそ、教員による対話的な関わりの真価が問われると言えます。そのような思春期の「しんどさ」に直面していること自体が成長の証であることをまずは伝えたいですし、短い書き殴りや厳しい自己批判等の行間にある生徒の姿を捉え、肯定的な自己理解の契機となるようなコメントや言葉掛けを是非していただきたいと思います。

     また、高校の中盤を過ぎ、そのような不安定な時期を脱しつつある生徒にとっては、疾風怒濤の思春期において記した記録を振り返ること自体が辛いことも十分想定されます。このような場面においても、教師の関わりがその生徒の自己理解の在り方を左右すると言えるでしょう。自我の揺らぎを経験してきたからこそ今のあなたがいるのだという事実を、先生方からの関わりによって、丸ごと肯定的に受け止められるようにしていただけることを強く願っています。


     これを書いたときには、すぐ上の文末の通り「強く願っています」という意図でしたが、今は、教師による「対話的な関わり」の必要性・重要性をより鮮明に認識しています。まさにそういった関わりを受けた者の一人として、確信をもってその意義をお伝えしたいと思います。

     日本は、万葉集の時代から「言霊の幸わう(幸はふ)国」と言われてきました。言葉を使って意思疎通を図り、言葉によって他者を励まし、救う力を与えられた意味を再確認し、言葉の持つ力を大切にしたいと改めて思った次第です。


バナースペース

藤田晃之

〒305-8572
茨城県つくば市天王台1-1-1
筑波大学人間系

TEL 029-853-4598(事務室)