2020年4月。本来であれば、私たちは、東京オリンピック・パラリンピックの開催を控えた高揚感の中で新年度を迎えていたはずでした。
けれども実際は、3月24日に東京オリンピック・パラリンピックの1年程度の延期が決定し、今月7日には「新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言」が埼玉・千葉・東京・神奈川・大阪・兵庫・福岡の7都府県を対象として出され、各知事は住民に対し、外出の自粛や学校施設の使用停止を要請することができるようになりました。政府は、今回の宣言が、罰則を伴う外出禁止の措置や都市間の交通の遮断などを典型とする「ロックダウン(都市封鎖)」のような施策ではないと繰り返し指摘していますが、報告される全国の感染者数は増加を続けており、今、私たちは、様々な制約の中で不安な日々を送ることを余儀なくされています。
振り返ってみれば、私たちの圧倒的多数は、年末・年始をごく普通に過ごしていました。1月には中国における新型コロナウイルスの感染者増加が連日報じられていましたが、その頃には「対岸の火事」として捉えていた方も多かったと推察します。2月に入ると、横浜港に着岸中の大型クルーズ船内での感染が広がり、アジア・アメリカ・ヨーロッパ諸国での感染の拡大も顕著になってきました。そして2月28日。文部科学省から「新型コロナウイルス感染症対策のための小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校等における一斉臨時休業について(通知)」が出され、全国のほとんどの学校が春休みまで授業を停止しました。現在でも、4月7日の緊急事態宣言の対象となった7都府県を中心として、3月からの授業停止を継続せざるを得ない学校が数多くあります。
ほんの3ヶ月程度で私たちの日常生活は激変し、多くの地域において学校教育は麻痺状態にまで変容したと言ってもよいでしょう。
無論、先生方をはじめとする学校関係者の皆様は、子供たちの健康と安全の確保に加え、学習支援の充実のために全力を挙げて取り組んでいらっしゃいます。けれども、そういった個人や学校単位の努力だけでは如何ともしがたい壁の存在も顕在化しています。例えば、これまで教育のICT化の環境整備と実践が積み重ねられ、各家庭と学校との間でオンラインによる授業が展開できている地域がある一方、事実上「春休みの前倒しと延長の同時実施」の状態に近い地域も少なくありません。また、コロナウイルスの感染状況の差による影響も大きく、登校型の授業が全くできない学校が数多くある一方で、飛沫感染を避けるためのソーシャル・ディスタンスの確保に留意しつつ学校での授業を行うことができているケースも存在します。
このような状況において、キャリア教育はどうあるべきなのでしょうか。
今、キャリア教育などと言い出すのは、飢饉に農民が苦しむ中「それならケーキ(菓子パン)を食べれば良い」と言い放つことにも通底する浅薄な譫言であると捉えることも、もちろん可能でしょう。けれども、私個人は、まったくそう思いません。
こんなときだからこそ、私たち教育に携わる者一人一人が、キャリア教育の視点から自らの行動を捉え直す必要があると強く思います。
◇
今日、地球環境問題、エネルギー問題など人類の生存基盤を脅かす問題も生じてきている。(中略)これからの社会をどのように展望するかについては、様々な変化や要素を考える必要があり、一概に言い表すことは難しいが、いずれにせよ、変化の激しい、先行き不透明な、厳しい時代と考えておかなければならないであろう。
我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。
[生きる力]は、単に過去の知識を記憶しているということではなく、初めて遭遇するような場面でも、自分で課題を見つけ、自ら考え、自ら問題を解決していく資質や能力である。これからの情報化の進展に伴ってますます必要になる、あふれる情報の中から、自分に本当に必要な情報を選択し、主体的に自らの考えを築き上げていく力などは、この[生きる力]の重要な要素である。
これらは全て、1996(平成8)年7月19日に中央教育審議会がとりまとめた「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について(第一次答申)」からの引用です。
この時点において既に、「人類の生存基盤を脅かす問題も生じている」という現実認識を前提としつつ、今後の「変化の激しい、先行き不透明な、厳しい時代」を「生きる力」の育成が強く求められていたわけです。そして、その「生きる力」は「初めて遭遇するような場面でも、自分で課題を見つけ、自ら考え、自ら問題を解決していく資質や能力」を包含するものとして構想されていたことを再確認しておきましょう。
その後、2008(平成20)年1月17日の中央教育審議会答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について」において、この「生きる力」は、次のように説明され、その後の学習指導要領を通して中核的に育成すべき力とされました。
「生きる力」とは、「変化が激しく、新しい未知の課題に試行錯誤しながらも対応することが求められる複雑で難しい次代を担う子供たちにとって、将来の職業や生活を見通して、社会において自立的に生きるために必要とされる力」である。
そして、新学習指導要領の基本的な方向性を示した中央教育審議会答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について」(2016(平成28)年12月21日)では、「これからの学校教育においては、『生きる力』の現代的な意義を踏まえてより具体化し、教育課程を通じて確実に育むことが求められている」と述べ、「生きる力」の重要性を再確認しています。
この答申が、「生きる力」について次のようにも指摘していることは、キャリア教育にとって極めて重要です。
社会や産業の構造が変化し、質的な豊かさが成長を支える成熟社会に移行していく中で、特定の既存組織のこれまでの在り方を前提としてどのように生きるかだけではなく、様々な情報や出来事を受け止め、主体的に判断しながら、自分を社会の中でどのように位置付け、社会をどう描くかを考え、他者と一緒に生き、課題を解決していくための力の育成が社会的な要請となっている。
こうした力の育成は、学校教育が長年「生きる力」の育成として目標としてきたものであり、学校教育がその強みを発揮し、一人一人の可能性を引き出して豊かな人生を実現し、個々のキャリア形成を促し、社会の活力につなげていくことが、社会からも強く求められているのである。
日本の学校教育で20年以上にもわたって大切にされてきた「生きる力」は、「初めて遭遇するような場面」や「新しい未知の課題」に対して、「自分で課題を見つけ、自ら考え、」「試行錯誤しながらも対応すること」を包含する資質・能力です。そしてそれは、「将来の職業や生活を見通して、社会において自立的に生きるために必要とされる力」であり、「一人一人の可能性を引き出して豊かな人生を実現し、個々のキャリア形成を促し、社会の活力につなげていく」という社会的要請に応える上でも不可欠な力です。
日本の学校教育は、このような「生きる力」の向上を一人一人の子供たちに求めてきました。求めてきたのは、他ならぬ、私たち大人です。より直接的には、このような「生きる力」の向上のための教育実践に携わってきた私たち教育関係者です。
そのような私たちが、コロナウイルスの感染拡大という「初めて遭遇するような場面」や「新しい未知の課題」に対して、「自分で課題を見つけ、自ら考え、」「試行錯誤しながらも対応」していること自体が、子供たちにとってのロールモデルを提示することに他なりません。
「ロールモデル」などという横文字を避けるとするなら、山本五十六の名言として知られる「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」を借りることもできるでしょう。「やってみせ」ないと、人は動きませんし、育ちません。
今、私たちの行動は、「大人はね、こういう苦しいときには、こんな風に工夫して乗り切る努力をするものなんだよ。(君たちも、いずれ大人になるんだから、ちゃんと見てな。)」というメッセージを伴って子供たちに届きます。子供たちは、常に見ているのです。
すべての「学び」は「真似び」、すなわち、年長者や憧れの対象の「まね」を原型とします。教育を「社会化」の一形態として理解するとすれば、意図的なもの・非意図的なものを問わず、「模倣」や「モデリング」は重要なプロセスです。そういう「まね」を通して、子供たちは、言葉を覚え、価値や規範を身につけ、思考や行動様式を形成していきます。私たちもそうして大人になってきましたし、子供たちもそうして大人になります。
無論、思春期を迎えると、これまでの模倣やモデリングをメタ認知できるようになり、場合によっては「だから俺はダメなんだ!」と厳しく自己否定し、自己の再構築をしようとするわけですが、再構築する際の「材料」は、これまで模倣やモデリングを重ねて得てきたものに、意図的に獲得してきた知識やスキル等を加えた中から見つけ出すしかありません。また、思春期においても、それ以降も、本人が意識するか否かにかかわらず“真似び”のプロセスは継続します。それくらい、「周りの大人」の存在は大きいのです。
私たち大人の行動、とりわけ、教育活動に携わる大人の行動は、私たちの意思とは無関係に、子供たちに対して「大人ってね、こういう行動を取るんだよ」というメッセージを伴い、それ自体がキャリア教育となります。より正確には、そうなってしまうのです。(教育学的にもっと正確に言い直せば、大人の行動は、それ自体が、ヒドゥン・カリキュラムとしての、あるいは、インフォーマル・ラーニングの環境としてのキャリア教育であると言えますね。)
◇
このような「生きる力」を、キャリア教育の観点からさらに具体化した「基礎的・汎用的能力」は、ご存じの通り、「人間関係形成・社会形成能力」「自己理解・自己管理能力」「課題対応能力」「キャリアプランニング能力」によって構成されます。
「人間関係形成・社会形成能力」に含まれる諸能力には「他者に働きかける力」「コミュ ニケーション・スキル」「チームワーク」などがありますし、「自己理解・自己管理能力」には、「前向きに考える力」「自己の動機付け」「忍耐力」「ストレスマネジメント」「主体的行動」などが含まれています。
現在、コロナウイルスの感染拡大抑止のため、学校に通えない、友達に会えない、部活もできない、遊びにも行けない……等々の制約の中で子供たちは生きています。私たち大人は、それに何重にも輪をかけた制約を受けつつ、日々新たな課題に直面しつつ生きています。そんな中で、「メディアを使えばこんなコミュニケーションが取れるのか! やってみよう。」「みんなで知恵を出し合うと、思わぬ解決方法が見出せるものなんだなぁ。」「くよくよしないで元気を出すには、こんなことも有効かもね。挑戦してみよう。」 と私たちが試行錯誤しつつ実践を重ねていくことそれ自体が、私たち自身にとってはもちろん、様々な制約を受けストレスを抱える子供たちにとっても大切なのです。
そして、未知のコロナウイルスとの「戦い」とも言える今日の状況において、「基礎的・汎用的能力」のうち「課題対応能力」が次のように提示されたものであることを再確認しておくことは、特に重要でしょう。
「課題対応能力」は、仕事をする上での様々な課題を発見・分析し,適切な計画を立ててその課題を処理し、解決することができる力である。
この能力は、自らが行うべきことに意欲的に取り組む上で必要なものである。 また、知識基盤社会の到来やグローバル化等を踏まえ、従来の考え方や方法にとらわれずに物事を前に進めていくために必要な力である。さらに、社会の情報化に伴い、情報及び情報手段を主体的に選択し活用する力を身に付けることも重要である。具体的な要素としては、情報の理解・選択・処理等、本質の理解、原因の追究、課題発見、計画立案、実行力、評価・改善等が挙げられる。
コロナウイルスの特性それ自体はもちろん、感染者の情報や、治療薬や治療法に関する情報など、インターネット上には様々な情報があふれています。今後、経済活動の抑制が続けば、社会保障等に関する新たな仕組みが整えられますから、それらに関する「分かりやすい解説」を求めるニーズは一気に高まり、それに呼応して多くの情報が発信されるに違いありません。その中には、意図をもって誰かを欺いたりしようとする虚偽の情報も、悪意はないものの事実には基づかない噂なども混在しています。私たちが、それらを吟味・検討した上で「情報の理解・選択・処理等」を行うこと、それを踏まえて「本質の理解」をしようとすること、そして、「従来の考え方や方法にとらわれずに物事を前に進めて」いこうとすること……こういったこと一つ一つが重要です。
繰り返しとなってしまい恐縮ですが、私たちが、未知の存在であるコロナウイルスに怯え、立ちすくみ、誤った情報に右往左往していれば、未来の社会を構成する者たちもそういった行動に終始する可能性が高まるでしょう。そうならざるを得ないと言っても大袈裟ではありません。
子供たちが生きることになるこれからの社会は、「変化の激しい、先行き不透明な、厳しい時代」となることが予測されています。そこでは「初めて遭遇するような場面」や「新しい未知の課題」が、より頻繁に立ち現れてくるでしょう。そうしたとき、彼ら・彼女らの行動の基盤となるのは、他でもない、私たちの行動です。
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私たちは、これまで、子供たちに対して「生きる力」が大切だと伝え、その向上のための教育活動に心を砕いてきました。「基礎的・汎用的能力」についても、同様です。
学校が従来通り機能している間は、意図的・計画的な教育活動を通した働きかけが中心でしたが、現在はそれらの実施自体が困難となっています。このような状況において、子供たちは、私たちの行動それ自体に目を向けるようになります。
学校に通う機会自体は激減していますので、先生方の行動を直に目の当たりにすることは多くないでしょう。でも、家庭に送られてくる文書や、その行間をとおして見えてくる先生方の考え方、姿勢などは、これまで以上に子供たちに伝わります。提出した各種課題に対する先生方のコメントも、子供たちはこれまで以上に繰り返して読むことになります。当然、言外のメッセージにも敏感になるでしょう。また、登校の機会が制限されているが故に、登校した際に目にする先生方の声、表情、手の動き……。これらが意味するものも、これまで以上に大きいと言えそうです。
問われているのは、私たち大人の「生きる力」であり、「基礎的・汎用的能力」のような気がします。
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