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〒305-8572 茨城県つくば市天王台1-1-1 筑波大学人間系

キャリア教育 よもやま話Just Mumbling...

第56話 「今、ここ」でのキャリア教育(2020年5月16日)

  •  新型コロナウイルス感染拡大抑止のための緊急事態宣言の実施期間が月末まで延長されることが決定したのは今月4日。その一方、7日には新型コロナウイルスとの言わば共存を想定した「新しい生活様式」が公表され、「コロナ後」を見据えた議論に関心が向けられ始めました。そして14日には、感染拡大に一定の歯止めがかかっている39県について緊急事態宣言解除が確定し、月末まで継続する北海道、東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、京都、兵庫の8都道府県との差が顕在化したと言えます。

     感染拡大抑止も重要。同時に、経済活動の再活性化も重要。その均衡を模索した結果としての今日の姿。今後、自治体ごとの施策に差に対する不満や疑念なども噴出するでしょうし、全国各地で小さな感染クラスターが発生することは避けようもありません。そして、ワクチンも特効薬もない現在の状況において、今後、感染拡大の第2、第3の波がやってくるのは時間の問題だとも指摘されています。それでもなお、私たちの日々の暮らしを繋いでいくためにも、世界恐慌級の経済危機を回避するためにも、経済活動の再活性化の方途は探らざるを得ない。……こんな状況で、不安にならない人はおそらく皆無なのではないでしょうか。

     今月上旬、アメリカ・オハイオ州の大学でオンライン形式の卒業式が開催され、来賓として招かれたトム・ハンクスが、卒業生に向けた祝辞を述べました。その中で、彼は新型コロナウイルスの世界的な感染拡大の影響力の大きさについて、次のように表現しています。

     皆さんがこの大学に入学したのは、2020年の新型コロナウイルスの世界的感染が起こる前の古き良き時代でした。これから先、皆さんはその頃を「いやぁ、あれは新型コロナの前だった。とんでもないパンデミック以前の頃だったんだよ。」と振り返るでしょう。皆さんの人生の一部は、「以前(before)」という言葉で示されるようになるのです。皆さんとは違う世代の人たちが、「それは戦前の話だ」「それはインターネット普及以前のことだ」「それはビヨンセの登場以前の話」などとよく言うように、皆さんにとって「以前」という言葉は大きな意味をもつようになるでしょう。

    You started in the olden times, in the world back before the great pandemic of 2020. You will talk of those earlier years in your lives just that way, "Well, that was back before the COVID-19. That was before the great pandemic." Part of your lives will forever be identified as "before" in the same way other generations tell time like, "Well, that was before the war. That was before the internet. That was before Beyonce." The word "before" is going to carry great weight with you.
    https://www.wkyc.com/article/news/education/tom-hanks-wright-state-university-ohio-commencement-speech/95-d11c51ce-b893-4a72-b935-2637d32e2b99


     新型コロナウイルスの世界的な感染拡大は、第二次世界大戦にも、インターネットの普及にも匹敵するほど、私たち個々人の在り方はもちろん、社会の在り方そのものにとって、それ「以前」とそれ「以降」とを截然と分かつ境界線になるとトム・ハンクスは指摘しています。

     では、「新型コロナ後の社会」はどうなるのでしょうか。……まだ誰にも分かりません。

     一方、分かり始めたこともあります。例えば、軽症だった患者が突然重症化し、急速に命の危機に瀕する場合があるという事実は世界的な共通認識となりつつあります。しかも、高齢者ばかりか、若年層であってもその危険性から完全には免れないことも分かってきました。また、国内では、感染拡大の第2波、第3波をできるだけ抑制するため、感染状況を細かくモニタリングし、一定の基準を超えたら再び社会生活や経済活動の自粛を求める方針を採用すると、国のみならずいくつもの自治体が明らかにし始めていることも、私たちが広く認識し、理解している事実です。

     つまり、これまで以上に日常生活を律し、自分や家族の命を脅かす事態を招かないようにしよう、再びあらゆる面での自粛生活に舞い戻らないようにしようと私たちの多くが思っているわけです。



     ……こんな当たり前のことを何でグダグダ書いているんだ、と思われたかもしれません。

     でも、このような状況であるからこそ、手探りで教育活動を再開した全国の学校において、是非とも実践していただきたいキャリア教育があるのです。(読み進めていただくに従って、「お前が言っているのは、キャリア教育じゃなくて道徳教育だろう(あるいは、学級活動・ホームルーム活動だろう)」というお叱りの言葉が聞こえてくることが予測されますが、教育活動のとしての呼び名や、時間割上のどのコマを使って行うか等々は実は大きな問題ではないのです。「特別の教科 道徳」として実践してもいいし、学級活動やホームルーム活動の一環に位置づけてもいいし、社会科や公民科などの関連単元の中で扱ってもいい。それぞれの学校の実情や先生方のお考えによって、実践の方策は様々でしょう。でも、それらを通したキャリア教育として、すなわち、子供たちが自分の将来に直接かかわることとして実感できるような教育活動を実践していただきたいと強く思っております。)

     すみません。前置きが長くなりました。先ほどの話に戻ります。

     今、日本に住む私たちの多くは、非常事態宣言から一旦解放され、自粛の檻から抜け出しつつあります。しかし同時に、私たちは、自分や家族の命を危険にさらさないよう、また、社会全体に自粛の再来を招かないよう、これまで以上にピリピリとした不安を抱えながら感染自体を忌避しようとしています。

     このような状況において私が最も心配していること。それは、感染者の自己責任を問う批判、あるいは、感染拡大につながりかねない(ように見える)行為への批判が、排斥やいじめ・暴力に発展しかねないことです。そして、それは社会的な分断を生みかねないと強く懸念もしています。

    ○ 自分がこれほど日常生活に気を配り、感染を避ける努力をしているのに、感染したあいつはそれを怠ってきたはずだ。このような気の緩みや怠惰は批判されて当然。

    ○ 飛沫感染の機会を極力減らすことが大切なのに、あの飲食店では客同士が会話をしている。とんでもない。


     このような、私たちの多くが持つであろう心の動きと、次のような現象との間の距離はそれほど大きいものではありません。

     あの家からくしゃみの音が頻繁にする。昨日のニュースで言っていた「新型コロナ感染者」というのはあの家の住人に違いない。…これは、疑心暗鬼による憶測に過ぎません。でも、この憶測がSNSで発信され、伝言ゲームの過程でいつの間にか確定的な事実のように扱われ、翌朝には、その家の壁や弊に「コロナ患者は出て行け」と落書きがなされる。こういったことが既に各地でおきています。

     そして、憶測によって感染者扱いを受けた人の氏名や家族構成、職場、職歴などが検索され、ネット上に晒され一層ひどい中傷に発展する。これもすでに各地でおこっていることです。身を挺してコロナウイルス感染者の治療等に当たっている医療関係者が、このような中傷の対象になることすら希ではありません。

     こうして中傷され、批判された個人や団体は、その後、その地域社会から排斥されるようになります。これまで「お隣さん同士」であった関係が一転し、不信感や憎しみが蔓延します。

     しかも、ここで重要なことは、いつでも、誰でも、そういった排斥の対象になり得るということです。人の目では捉えられず、まだ人の手によるコントロールもできないウイルスが相手ですから、自分が感染する可能性は常にゼロではありません。もし、自分が感染したら、あのようなひどい目に遭うかもしれない、という恐怖とともに人は生活をするようになります。そうなれば、「仮に体調が悪くても、絶対に他人にそれを知られないようにしよう」と心に決めることになるでしょう。ここから先は、言うまでもありません。感染拡大の重大な契機が、あちこちに生まれます。

     このような状況下において、人はさらに感染をおそれ、感染につながりかねない他人の行為を鋭く批判するようになります。なぜマスクをしないんだ。なぜ俺の隣に座るんだ。なぜ子どもを外で遊ばせるんだ。なぜ外食をするんだ。……みんながみんなを監視し、批判し合う社会です。そして、これらの個人的な避難の声がSNSに発信されれば――、もうここに繰り返して書くまでもないでしょう。



     私たちは不安を抱えた生活を余儀なくされるとき、その不安の重さに耐えかねて、安易な解消法に走る傾向を持っています。誰の責任に帰すこともできない不安、解決の方法もない不安であるにもかかわらず、スケープゴート(不安のはけ口となる対象)を特定し、その対象を攻撃すれば、あたかも不安自体を攻撃しているかのような錯覚に陥ります。その錯覚こそが、つかの間の安心感をもたらします。これが問題とすべきことです。錯覚によるほんの一瞬の安心感なのに、それでも安心感であることには変わりない。だから、私たちはそれを求めてしまう。

     そして、スケープゴートは、それらしい理屈さえ付けば誰でも良いのです。「私がこんなに自粛生活をしているのに、カラオケに行ったとんでもないヤツ」……格好の理屈です。「こんなご時世なのに営業しているラーメン店」……これも格好の理屈です。「以前、俺を叱った上司」「元カレの現在の彼女」「普段からどうも気に入らないあいつ」……これらも全部格好の理屈です。それらしい理屈は、いとも簡単に見つかります。誰がターゲットになっても全く不思議ではありません。

     こうした私たちの心の動きは、時に権力者によって利用されもします。ナチス時代のユダヤ人迫害などはその典型でしょう。人の心の歪みを巧妙に利用し、不安と恐怖と安堵感を同時に与え、人を操ったのがナチスでした。

     確かに、今回の新型コロナウイルスの感染に関連したスケープゴート探しにおいては、軽率な行動をとっていた人がターゲットとされるケースが少なくありません。あいつはあんなことを平気でしたのだから、何らかの社会的な制裁を受けるのは当然、という暗黙の了解が成立してしまっているようです。けれども、過去に改善の余地のある行為をしたという事実は、その人が執拗に糾弾され人権すら否定されるような状況に陥れることを肯定する論拠には全くなりません。そんなことをしても、制裁を加える側が「ざまぁみろ」と溜飲を下げる、すなわち、ほんの一瞬だけスカッとするだけなのに、糾弾された側にはずっと消えない深い傷が刻まれます。そして、糾弾した側とされた側との間には、その後永く埋まらない溝ができるのです。

     言うまでもないことですが、日本国憲法第31条が定めるとおり、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」のです。法の適正な手続を経ない私的制裁はしてはならない――これは、私たちの社会が前提とするルールです。

     まして、何の非もないまま新型コロナウイルスに感染した人、感染の事実がないのに感染したことになっている人、認められたルールに従って営業している事業所、許される範囲で日々の暮らしの中に楽しさを見出そうとしている人など、確たる理由なく批判され、スケープゴートにされている人や団体の存在を私たちは意識して捉えるべきではないでしょうか。

     ここで重要なことは、このようなスケープゴートの特定化が、ナチス政権による迫害を受けたユダヤ人や関東大震災時の朝鮮人等などのいわゆる「歴史的事実」に留まらず、今日に至るまでずっと繰り返されてきたという現実です。私たちの記憶に新しいところで言えば、東日本大震災の後、福島県から避難してきた人たちに対して、「放射能が移る」「ばい菌が移る」と排斥したことなどが典型例となります。幼く分別の付かない子どもばかりか、一部の大人たちもそのような愚行をくりかえしていたことが、当時、数多く報道されました。そして、今、コロナウイルスの不安に耐えかねた人々の一部が、それらしい理屈を付けてスケープゴートを探し出し、攻撃しています。「ネット私刑」「自粛警察」などの造語が生まれ、それが違和感なく使われるほど、その頻度は高いと言えるでしょう。

     このような状況を断ち切ること。少なくとも断ち切ろうとすることがキャリア教育には求められています。

     ここで、文字通り釈迦に説法ですが、キャリア教育を通して育成する「基礎的・汎用的能力」のうち、「人間関係形成・社会形成能力」とは何かを確認してみましょう。

    「人間関係形成・社会形成能力」は、多様な他者の考えや立場を理解し、相手の意見を聴いて自分の考えを正確に伝えることができるとともに、自分の置かれている状況を受け止め、役割を果たしつつ他者と協力・協働して社会に参画し、今後の社会を積極的に形成することができる力である。
     例えば、他者の個性を理解する力、他者に働きかける力、コミュニケーション・スキル、チームワーク、リーダーシップ等が挙げられる。


    「多様な他者の考えや立場を理解」する力、「他者と協力・協働して社会に参画し、今後の社会を積極的に形成することができる力」、「チームワーク」……キャリア教育が育成を目指す力は、疑心暗鬼や不信感、不安や恐怖が蔓延するような社会とは全く対極にある社会を創造し、参画するための力です。

     新型コロナウイルスへの不安や恐れが、他者への攻撃や糾弾に形を変える今だからこそ、私たちはその現実に正対し、子供たち伝えるべきことを伝えなくてはなりません。

     無論、自らの生命を脅かす新型コロナウイルスの感染の危険性がつねにある中での暮らしが、不安を増大させることは自然なことです。不安は軽減したいし、一刻も早くそこからに抜け出したいと思うことも当然なことでしょう。けれども、その不安を刹那に断ち切ろうとするとき、私たちの内面には人を傷つけ、自らのコミュニティーを分断してしまう可能性が顔を覗かせるのです。仮にその愚行を犯せば、それはいつか自分に向かう刃として戻ってくるのだという認識を、一人一人の子供に持たせたいものです。

     少なくとも「新型コロナ後の社会」を、みんながみんなを監視し、批判し合う社会にしてはなりません。無論、子供たちに社会の担い手役をバトンタッチする前に、そんな社会にしてしまったのでは話になりませんね。まず動くべきは、私たち大人です。



     意図したわけではないのですが、今回は重い話になってしまいました。シリアスな話題でも、心がほっこり温かくなるような書きぶりに転換できる力量が欲しいと切に思います。

     このまま終わるとどうも後味が悪いので、最後に、「これを作った人たちの才能がうらやましいなぁ」と思った動画をご紹介します。日本赤十字社による「ウイルスの次にやってくるもの」です。(インターネット上のみならず、多様なメディアで数多く紹介されているものですので、既にご覧になった方も多いと存じます。)

     この動画は新型コロナウイルスに特化した作りになっているのですが、使い方によっては千変万化の可能性がありそうです。作り手の豊かな才能を受け取って、それをどう生かすか。使う側である私たちの力量も相当厳しく問う動画かもしれません。
    https://www.youtube.com/watch?v=rbNuikVDrN4


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藤田晃之

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