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キャリア教育 よもやま話Just Mumbling...

第64話 続: 学びの先にあるもの(2021年12月29日)

  •  先月(2021年11月)、日本の新しい学習指導要領で育成をめざす「資質・能力の3つの柱」にも大きな影響を与えたCCR(Center for Curriculum Redesign)が、幼児教育から日本の中学3年生に相当する第9学年までを対象とした「現代数学科」の国際スタンダード(“Modern Mathematics” global standards)を発表しました。

     その詳細は、CCRによる以下の特設ページに譲りますが、
    https://curriculumredesign.org/modern-mathematics/
    ここでは、まず、当該国際スタンダードの紹介動画に注目したいと思います。「数学なんて、やっても意味ないよ」と固く信じ切っていた高校生の頃の僕自身に見せてやりたい衝動に駆られた動画です。以下、動画の前半部分のナレーションの仮訳を皆さんと共有させていただきます。(動画自体は4分にも満たない短いものです。しかもナレーションのほとんど全ては、動画の一部として効果的に画面上にレイアウトされて明示されます。是非、上掲のURLから動画をご覧下さい。)

    あなた自身が数学を学んだときの経験を振り返ってみて下さい。
    なぜ数学を学ぶのか、そのとき理解していましたか?
    数学を学んだ経験から、今、何を思い出せるでしょう?
    今回、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)の渦中にあって、あなたは数学を活用することができたでしょうか?

     今日の私たちの日常生活における最大の問題のいくつか――例えば、地球温暖化、不平等、パンデミックなど――は、指数関数、確率論、複雑系、ゲーム理論などの数学の総合的な理解に基づいて対処することができるのです。

     しかし、多くの応用数学(applicable math、数学の力を社会の改善や発展に生かそうとする数学の分野)は、学校教育制度の中に確固たる位置づけを得ておらず、その結果、私たちは代償を払っているのです。理論的な数学(sophisticated math)は、学校教育の中に位置づけられていますが、私たちにとって関連性を感じることのできる数学、つまり、大学生だけでなく、すべての人にとって重要だと思える数学のための場所を確保する必要があるのです。

     もし、私たちが本当に「指数関数的な増加は人を欺くものである」と理解していたら、今回の新型コロナウイルスの爆発的流行に対する私たちの対応はどのように変わっていたでしょうか? 早い段階で都市封鎖を実施し、感染率の急上昇や壊滅的な死者の増加を防ぎ、何兆円もの支出を削減できたのではないでしょうか? もし私たちが確率をもっとよく学んでいたら、私たち市民はよりよい意思決定をしていたのではないでしょうか? もし私たちがアルゴリズムと複雑系を本当に理解していたら、ワクチンの世界的な配分をより成功させることができたのではないでしょうか? 人間の行動を予測するのに役立つゲーム理論をちゃんと学んでいたら、マスク着用の重要性についてもっと違ったコミュニケーションをとっていたのではないでしょうか? ワクチンの接種を躊躇している人たちに対しても、より適切な対処ができたかもしれません。

     今回のパンデミックは、現代の数学が軌道を変えることができた顕著な例として見なすことができます。数学の理解が人類のために役立つ方法は、まだまだたくさんあるのです。

    Think about your own educational experience with Math.
    Did you understand why you were learning it?
    What do you remember from it now?
    Were you able to apply it during this pandemic?

    Some of today's greatest life challenges- global warming, inequities, pandemics- can be addressed based on our collective understanding of Maths like Exponential, Probabilities, Complex Systems, and Game Theory.

    But a lot of applicable Math doesn't have a home in our educational systems, and we are all paying the price as a result. Sophisticated math has its place, but we need to learn math that is relevant and do we need to make room for the math that matters to everyone, not just college students.

    If we truly understood Exponentials are deceiving then Explosive how would our response to the pandemic be different? Wouldn't we have enacted a shut down early on, preventing soaring infection rates, a devastating death toll, and save trillions of dollars? If we learned Probability better, would our citizens be making better decisions? If we truly understood Algorithms and Complex Systems, would we have had a more successful vaccine rollout? If we learned Game Theory to help us predict human behavior, would we have communicated differently about the importance of wearing masks? Would we be better equipped to address vaccine hesitancy?

    The pandemic serves as a striking example of where modern Math could change the trajectory. There are many more ways our understanding of it will serve humanity.

     数学に限らず、私たちが一般に「教科」と呼んでいる学びの体系は、対象学年が上がれば上がるほど高度になり、抽象度を増します。当然のことながら、子供たちの理解度や習熟度にばらつきが見られるようになり、「できる子」と「できない子」の差も大きくなります。そこで、いわゆる「積み上げ型」の学びが必要とされる教科においては、「できる子向けのカリキュラム」と「できない子向けのカリキュラム」 が構想されるようになり、多くの場合、それは到達度の差の拡大を助長させます。

     1970年代のアメリカ合衆国(以下、アメリカ)におけるカリキュラム改革はまさにその典型でした。――ハイスクール初年時(=一般的には第9学年)で標準的に学ぶ「代数1」が難しいなら、まずは、日常生活により即した「消費者数学」を履修すればいいんだ。その翌年に履修することになる「代数1」も授業の進度を半分にした「代数1A」と「代数1B」を準備したから、あえて「代数1」を1年で履修しようと思わなくていいよ。まずは「代数1A」で1年間。次に「代数1B」で1年間。ゆっくり学べばいいんだよ――。確かに、自分の理解の及ばない授業に“お客さん”のようにして参加させられて無為な時間を過ごすよりも、このような方策のほうが遙かに良いとも捉えられます。

     でも、いわゆる「できる子」はハイスクール在学中に「微積分」にまで進み、更にその一部は大学との連携によって提供される「線形代数」にすら手を伸ばし、その過程で、指数関数・確率論・複雑系・ゲーム理論などにも触れる機会を得る可能性が残されます。一方、「できない子」はそれらの片鱗にも触れないまま、「代数なんてなぜ学ぶのかなぁ」「こんなのできてもできなくても、俺の一生には何の影響もないのになぁ」と絶望しつつ、ハイスクール卒業資格取得のために、卒業後には剥落していくかもしれない数学の知識を学ぶ弊害に接近せざるを得ません。仮にこれが実態だとすれば、それは本当に「その子のため」なのでしょうか。「数学って、僕たちの社会の進むべき道を、僕たちの未来の軌道を変える力を持っているんだ!」という発見がもたらす興奮と喜びを体感することは、こういった「できない子」にとっては贅沢な願いなのでしょうか。

     無論、アメリカにおいても、このような「学びの格差」が放置されてきたわけではありません。1980年代には、教育の卓越性(Excellence)の実現をめざす教育改革の中で、教育の「質(Quality)」と「平等(Equality)」を同時に達成しようとした“EQuality”という造語が用いられもしましたし、1990年代には「誰一人として取り残さない」ことを理念として掲げた連邦法「NCLB(No Child Left Behind)法」を成立させ、その下で各種の学力向上施策が展開されました。 その結果、人種・民族間の学業成績の差は2010年代前半まで縮小傾向を見せ、総体としての学力(全米共通学力テストの平均点)も向上してきていましたが、現在入手できる範囲で最も新しい2020年の統計を見ると、再び格差の拡大が確認され、総体としての学力の向上にもブレーキがかかっています。(Average scale scores for age 13 long-term trend mathematics, in U.S. Department of Education, Institute of Education Sciences, National Center for Education Statistics, National Assessment of Educational Progress (NAEP), 1978, 1982, 1986, 1990, 1992, 1994, 1996, 1999, 2004, 2008, 2012, and 2020 Long-Term Trend Mathematics Assessments.)

     1980年代以降のアメリカにおいて国を挙げて学力向上をめざした結果、「できる子」にはハイスクール入学以前から最大限の速習を支援し、ハイスクール在学中の「微積分」の単位取得に向けて尻を叩くかのごとき指導がなされ、「できない子」にも「消費者数学」などを典型とした“楽勝科目”の選択肢を与えない方策が一般化しました。これによって、「できる子」たちには「微積分」を頂点として準備される数学分野の選択科目の階段を脇目を振らずに駆け上ることが求められ、その結果、授業を通して「数学には僕たちの未来の軌道を変える力がある!」という発見をする機会は減少したと言えるでしょう。また、「できない子」たちにとっては、ますます数学と自分たちの現在や未来の生活との接点が見えにくくなっている状況が生じていると推察されます。

     翻って、日本においても全国学力・学習状況調査の結果の分析がなされ、「就学援助率が低い学校の児童・生徒ほど、そして所得水準が高い市町村の児童・生徒ほど、相対的に学力が高い傾向がある」ことが浮き彫りとされ、学校や基礎自治体の社会経済的な状況と児童・生徒の学力との間の関連が明らかとなっています。そして、成績の低い学校や基礎自治体に対する教員配置の工夫や財政的支援、各学校における授業研究や放課後の学習サポートの積極的な実施等が全国各地で進められています。(ここでの引用は、文部科学省(2008)『検証改善サイクル事業成果報告書』所収の「千葉県検証改善委員会」による報告に基づきました。)けれども、新型コロナウイルスによる休校措置などの要因も複雑に絡み合い「学力の二極化」の状況が改善できていないことは皆さんがご存じの通りです。また、TIMSSやPISAによって示される学力は極めて高い日本の中学生・高校生ですが、生徒の意識調査を見る限り、学校での学習に自分の将来との関係で意義を見出している割合においても、学習への全般的な意欲や関心をもっている割合においても、日本の生徒たちが「世界の最底辺」の位置にいる状況に変容は見られません。

     もちろん、どのような手立てを講じたとしても、「できる子」と「できない子」の間にある到達度の差を完全になくすことはおそらく不可能でしょう。財政支援をしても、教員の加配をしても、ICTの強みを生かした学びの在り方を工夫しても、すべての者が同じ水準の学力を身に付けることはできないと思われます。

     けれども、その差をできる限り小さくする努力はけっして怠ってはならないものです。仮に怠ってしまえば、社会的格差の再生産装置であると批判されてきた学校教育の負の側面は微塵も改善されないままとなるでしょう。そして、その努力を継続する際には、「尻を叩いて点数を上げさせる」指導は言うまでも無く、「きめ細やかな指導」「個に応じた指導」「個別最適な学びの支援」等々も含め、これまでなされてきた取組が共通して内在させてきた課題――すなわち、「できない子」の学力を飛躍的と呼べるほど急激に向上させる契機を提供しにくく、「できる子」との間の差を縮小することにもつながりにくいというジレンマ――を克服するための新たな発想が必要ではないでしょうか。

     今回CCRが提示した「『現代数学科』の国際スタンダード」は、この課題を超克する契機になるかもしれません。少なくとも僕個人は、その可能性に期待したいと強く思います。

     CCRによる「現代数学科」の国際スタンダードの詳細を把握するためには、冒頭に挙げた特設ページを経由して希望者に無償で提供されるスタンダード自体を直接ご覧になるという「王道」を選択いただく以外に方策はないのですが、ここでは、スタンダードの公表に先立って2021年4月に取りまとめられた報告書Mathematics for the Modern World: Standards for a Mathematically Literate Societyから、スタンダードのエッセンスを抄出してご紹介します。

    1.数学は誰のために存在してきたのか?(p.6)
    ※ここでの見出しは今回のよもやま話のために僕がつけたものです。報告書の見出しを翻訳したものではありません。以下同じ。
     数学のカリキュラムは、誰のために作られたものなのでしょうか。これまでの学校での数学の扱われ方だけを見れば、数学は理工系[STEM(科学、技術、工学、数学)]分野に進学しようとする生徒だけに必要なものであって、それを全員に教えるのは、理工系分野で専門的に活躍できそうな生徒を見極めるためでしかないと結論づけても不自然ではないでしょう。数学のカリキュラムは、その構造からして、微積分の準備をするものとなっていますし、生徒たちは微積分を履修するように圧力をかけられているのです。――なぜなのでしょう? 微積分の履修自体が高校での学業的な成功そのものであり、生徒の親にとってそれは誇りの象徴だからです。(For whom is the mathematics curriculum designed? If one were to look solely at how mathematics is treated in schools, they might conclude that math is really only needed for those who continue on to a STEM (Science, Technology, Engineering, Mathematics) career, and the only reason it is taught to everyone is in order to identify those that may be able to utilize it professionally. The curriculum, in terms of its structure, prepares students for Calculus, which students are pressured to take. Why? Calculus is the quintessence of high school success; it represents prestige for parents.)

    2.「現代数学科」国際スタンダードがめざすもの(pp.7-8)
     CCRは、すべての人のための数学教育には価値があり、実際、「すべての」生徒が、必ずしも全部の数学的な手順を修得しなくとも、数学の重要な学びの成果を内在化することが重要であると信じています。数学のスタンダードにおける各内容項目の最終的な目標を明らかにすることによって、どの内容が理工系分野への進学にのみ必要となるのかを見定め、かつ、21世紀のすべての市民に必要な数学のための学びを確保することができるようになるのです。(CCR believes that there is value to mathematics education for all, and in fact, it is crucial that "all" students internalize the important takeaways of math, without necessarily mastering all the procedures. By identifying the ultimate goals of each item in a set of math standards, we can begin to trace which content is only necessary for those going into STEM and begin to make room for the mathematics required for all citizens of the 21st century.)

     では、理工系(STEM)の進路を選ばない生徒(すなわち、大多数の生徒)が数学教育から得るべきものとは何でしょうか。ここで「リテラシー」という言葉が、すべての市民が社会に参加するために必要な読み書き能力に関する議論から採用され、すべての市民にとって絶対に必要な、どのような場であっても求められる一連の最小限の(したがって学校の責任で身につけさせる必要のある)スキルを意味するようになったことを確認しておきましょう。この意味において、数学に関してすべての市民にとって最低限必要なスキルとは何でしょうか。(So what should be the takeaways of math education by those who do not go on to a STEM career (the vast majority of students)? The word “literacy” has been adopted from discussions about the reading and writing skills that all citizens need to participate in society, to refer to a set of minimal skills within any given particular modality that are absolutely necessary for all citizens to possess (and thus the responsibility of one's school to instill). So what are the minimal necessary skills for all citizens when it comes to math?

     定量的な観点におけるリテラシーを持つ市民となるためには、公式や方程式の暗記以上の知識を獲得している必要があります。数学的な目を通して世界を捉え、日常的な問題について定量的に考えることの利点(とリスク)を理解し、慎重な推論の意義を踏まえながら複雑な問題に取り組むことができる素養が必要となります。定量的リテラシーは、自分で考え、専門家に知的な質問をし、自信を持って権威に立ち向かう上で必要なツールとなり、人々の力量を向上させるものです。(Quantitatively literate citizens need to know more than formulas and equations. They need a predisposition to look at the world through mathematical eyes, to see the benefits (and risks) of thinking quantitatively about commonplace issues, and to approach complex problems with confidence in the value of careful reasoning. Quantitative literacy empowers people by giving them tools to think for themselves, to ask intelligent questions of experts, and to confront authority confidently.

     そのためOECDは、数学的リテラシーを次のように定義しているのです。
    「数学的リテラシーとは、
     ●数学が社会で果たしている役割を見出して、理解することができ、
     ●確固たる根拠に基づいた判断を下し、それを活用することができ、かつ、
     ●建設的に思考し、社会的な関心をもち、思慮深い判断のできる市民としての生活を営む上で生じる様々なニーズに対処する際に数学に取り組むことができる
    ようになるための個人の能力である。」
    (The OECD defined Mathematical Literacy as: “...an individual’s capacity to:
    ● identify and understand the role that mathematics plays in the world,
    ● to make well-founded judgements and to use and
    ● engage with mathematics in ways that meet the needs of that individual’s life as a constructive, concerned and reflective citizen.”)

     上に引用した定義は、生徒が数学教育から何を学んでほしいかを明示する素晴らしい記述として成立していますが、実際の数学カリキュラムは、数学における細々とした技術的・手続き的な側面に埋没したままの状態にあります。(These are both great descriptions of what we hope students will take away from Mathematics education, yet math curricula continue to get bogged down in technical/procedural details of Mathematics.)

     これは数学に限ったことではなく、すべての教科がこの落とし穴に陥っていると言えるでしょう。例えば、「リテラシー」という言葉が意味する力を獲得させるために、一部の言語カリキュラムは、文法規則の繰り返し学習に焦点を当てるという同様の罠に陥っています。私たちは、詳細な文法事項を叩き込むよりも、言語学に対する理解を深めさせ、自ら望みさえすれば多様な言語や環境における文法を認識し理解できるようにすることのほうがより有益なアプローチであると考えます。同様に、数学教育の目標は、数学的なレンズを通して世界を捉え、自ら進むべき道を定めるために必要なスキルを生徒に教えることであると私たちは考えているのです。(This is not unique to mathematics — all disciplines fall in this trap; for instance, in the traditional sense of the word literacy, some language curricula have fallen into a similar trap of focusing on drilling grammar rules. We believe that rather than drilling grammar rules, a more useful approach would be to instill in students an understanding of linguistics so they can recognize and understand grammars in many different languages and settings if they wish. Similarly, we believe the goal of mathematics education is to teach students the skills they need to navigate the world through a mathematical lens.)

     多くの数学者や一部の数学教育者は、より深い理解に到達するために、まずテクニカルな側面を詳細に学ぶことの重要性を強調します。それは、親が子どもに対して「デザートを食べる前に野菜を食べるのが常識ですからね」と理屈抜きで命じているようなものと言えるでしょう。しかし、手続き的な学習は、本当に深い数学的な学びを会得する上で不可欠な前提条件なのでしょうか?(Many mathematicians and some math educators will stress the importance of learning the technical details in order to gain a deeper understanding with the same certainty that parents stress eating vegetables before having dessert. But is procedural learning truly a necessary prerequisite to attain deeper mathematical learning?)

     その答えは「ノー」であるというコンセンサスが生まれつつあります。微積分やトポロジー(位相数学)のような高度な数学のトピックを幼い子供たちに教えることを目的としたプログラムやカリキュラムが次々と登場しており、高度な数学はとっつきにくいという長年の常識が誤った理屈に基づいている可能性があることを示しています。もちろん、いわゆる理工系コースに進学する生徒にとっては、前提条件を十分に深く学んでから次のステップに進む方策がベストであることは事実でしょう。しかし、理工系の大学進学を想定していない大多数の生徒にとっても、数学の幅広い分野に触れ、その多くの用途と価値を理解することは絶対に必要なことであると同時に、実現可能なことなのです。その結果、そのような生徒たちは、一定の時間的な制約の下で、誰の力も借りずに、広範な数学の世界を再現(再提示:reproduce)することができるようになるとは必ずしも限らないかもしれません。けれども、実際の生活場面では、人はいつでも、電卓やソフトウエアを使ったり、ネットで調べたり、専門家に質問したりできるのです。大切なのは、適切な検索語を入力することができる力、調べようとする対象が何かを把握できる力、誰に質問すべきかを判断できる力です。(A consensus is growing that the answer is no. Programs and curricula that aim to teach advanced topics of math, such as calculus and topology, to small children are cropping up, showing that the long-held wisdom about the inaccessibility of higher-level math may be based on flawed reasoning. Namely, it is true that for those going into a STEM track, it is best to learn the prerequisites to their full depth before moving forward. But for the majority of students, who aren’t on the STEM track, it is absolutely possible and necessary that they are exposed to a broader swath of the field of math, so that they gain an understanding of its many uses and value, without necessarily being able to reproduce it all themselves with no support and under time pressure. In life, after all, one can always use a calculator or software, look things up online, or ask an expert; the trick is knowing what to type, what to search, and whom to ask.)

    3.「数学を活用(解釈)すること」と「数学を生み出すこと」(pp.15-16)
     「数学を活用すること(consuming)」と「数学を生み出すこと(producing)」とを区別して考えることは、より高度に見えるトピックを生徒がどのように学ぶかについての想定を理解する上で重要な鍵となります。確かに、数学を生成し得る(生み出し得る)程度まで学習できていれば、その生徒は、数学に出会ったときにそれを活用(=解釈)することができるとみなし得るでしょう。これは、構成主義に依拠する教育学の長い伝統に根ざした捉え方です。(This distinction, between consuming and producing mathematics, is key to understanding how students will be expected to learn what appear to be more advanced topics. It is true that if one learns math to such a degree that they can produce it, they will have learned enough to be able to consume (i.e. interpret) math when they come across it. This is rooted in a long tradition of constructivist pedagogy.)

     しかし、私たちが問題とすべきは、数学を習得できていない生徒の大部分が、数学を解釈することもできていない、言い換えれば、数学リテラシーを獲得できていない、という現実です。「高い目標を設定しておけば、たとえその目標を達成することができなかったとしても、何かしら価値のあることは達成できているに違いない」という前提の下で、私たちは「高い目標」すなわち「すべての生徒が数学を習得できる」という目標を設定してきました。しかし、その結果「何かしら価値のあることが達成できた」、すなわち「ほとんどの生徒が数学を少なくとも適切に解釈できるようになっている」という現実は導かれていないようです。それどころか、「高い目標」に到達できているのはごく一部の生徒に限られ、大多数の生徒は数学から完全に疎外されてしまっています。もし仮に、すべての生徒がそれぞれ到達可能な程度において自力で数学を解けるようにすることを目標とはせずに、すべての生徒に数学を解釈できるように教える(つまり、すべての生徒に数学的なリテラシーを与える)ことに焦点を当てたらどうでしょう。テクノロジーの利用が私たちの生活を変えたように、この転換はより多くの高度な数学のトピックを人々にとって身近なものとし、数学的リテラシーに対してすべての生徒の目標としてふさわしい位置づけを与える可能性をもっています。(However, what we are seeing is that the large portion of students who never do master math, are also unable to interpret it; in other words, they are not math literate. It seems that when we “shoot for the moon” (all students producing math), we do not “land among the stars” (at least most students properly interpreting math). Instead, a small portion of students land on the moon, and the majority are alienated from mathematics altogether. What if, instead of trying to make all students produce math to whatever degree they are able, we refocused instead on teaching all students to interpret math (i.e. making everyone mathematically literate). Like increasing the use of technology, this shift has the potential to extend how advanced a mathematical topic can be covered, and puts math literacy in its rightful place as the goal for all students.)

    4.生徒の多様なニーズへの対応(pp.14-15)
     今回のスタンダードは、大学進学の際に理工系を選択するわけではないものの、数学が生活にどのように応用されるかを理解する必要がある大多数の生徒を、改めて焦点とするものでなくてはなりません。しかし、これはジレンマも生じさせます。理工系分野の職業に就く生徒はより深く数学を学ぶ必要がありますし、当然、それは奨励されるべきものだからです。(The math standards must be refocused to be aimed at the majority of students, who will not go on to study STEM, but will need to understand how math applies to their lives. However, this creates a tension because those students who will go into a STEM career need to go into greater depth, which of course should be encouraged.)

     そこで、私たちは「発展学習(Extension)」と名付けたスタンダードを設けました(実際には「EXT」と表示されます)。これは、学習を終えた生徒に、他の生徒と同じトピックでありながら、より発展的な教材を提供することで、教室内での個別対応を図ろうとする学校を支援するためのものです。また、それぞれのスタンダードよりも下位の基準や活動に分解することが特に重要であると考えられる場合には「学習目標(Learning Objectives「LO」)」を設定することにしました。(One way we have captured this in our structure is by creating what we’ve called “Extension” standards (those that begin with [EXT] in their Name). This is to help support schools who would like to create more differentiation in their classrooms by providing students who have finished their work with more challenging material which is still on the same topic as the rest of the class. On the other end, we also provide certain Learning Objectives (those that begin with [LO] in the Name) when we believe there is a particularly important way to break down a dense standard into smaller standards or even activities.)

     さらに、私たちのスタンダードは、10年生からは「3分化」つまり3つの進路別数学教育プログラムに分かれることを前提としています。いずれのプログラムも優劣等の価値判断を伴うものではありません。逆に、一人ひとりの生徒に最も役立つ数学を提供することを目的とするものです。そのため私たちは、以下の3グループを想定した授業を推奨するのです。
     ●理工系の大学への進学を希望する生徒
     ●就職を希望する生徒
     ●人文系・芸術系の大学への進学を希望する生徒
    (Furthermore, our standards reach a point after ninth grade where they reach a “trifurcation”, i.e. get divided into three tracks. There is no value judgment placed on any of the tracks; rather the purpose is to give each student the math that would be most helpful to them. For that reason, we recommend classes aimed at three groups:
    ● Those going to study STEM in university
    ● Those going into a vocational career
    ● Those going to university for Humanities or Arts


     第10学年及びそれ以降においては、生徒の目的によっての数学の扱い方が異なる授業が最適と言えるでしょう。理工系分野に進学する生徒にとっては、テクニカルな側面を深く掘り下げた授業や試験対策など、従来から多く見られた数学の授業と同じような実践が典型となるでしょう。一方、高校卒業後に職業的なキャリアを目指す生徒にとっては、職業に応じた自然で実践的な文脈の中で注意深く学ばれるべき重要な数学が存在します。最後に、人文・芸術系に進む生徒にとって数学を取り上げることは依然として重要ですが、その目的は、数学や数学的真実の生成者を育成することではなく、それらを論理的な思考の下で活用・解釈できる者(critical consumers of math and math claims)を育成することにあります。(Depending on their goals, students would be best served by classes that treat math in very different ways. For the students going on to STEM, classes would typically resemble what we have traditionally seen in math classrooms: going into great technical depth and preparing students for exams. For those going into a vocational career, there are certain other maths that are very important, and would need to be studied carefully, in the natural, applied, contexts of the vocations. Finally, for those going into Humanities and Arts, it is still important to cover math, but the goal is to prepare students to be critical consumers of math and math claims, rather than its producers.)

     下手くそな翻訳をズラズラと書き並べてしまいましたことをお許し下さい。でも、今回は、どうしても皆さんとこれらの共有をしたかったのです。

     本報告書は、これまで学校で提供されてきた数学教育について、その頂点に置かれた微積分の学習に向かう階段のような構造として内容が配列され、詳細で厳密な計算技能を修得しつつその階段を上ることを生徒に求めるものであると捉え、すべての生徒がその対象とされるのは、理工系分野で専門的に活躍できそうな生徒を見極めるためでしかないとみなされても仕方がないだろうと指摘しています。その上で、「Shoot for the moon. Even if you miss, you’ll land among the stars.(月を目指せ。たとえ月にたどり着かなくても、どこかの星には到着しているだろう。[=高い目標を設定しろ。たとえその目標を達成することができなかったとしても、何かしら価値のあることは達成できているに違いない。])」という英語の慣用句を使いながら、全員にそういった構造のカリキュラムでの学びを強いることによって数学の知識や技能を身につけさせようとすることは、月を目指すような高い目標であると批判し、そういった現実離れした目標を設定してきたこと自体が大多数の生徒を数学から疎外する状況を生んでいると酷評しています。

     このような前提に立って本報告書は、理工系の学問を大学で専攻しようとする者を除いた大多数の生徒にとって必要な力は、数学を活用して世の中を読み解くためのリテラシー、すなわち、数学的なレンズを通して世界を捉え自ら進むべき道を定めるために必要なスキルであると述べています。生活を営む上で生起する様々な課題を論理的に把握し、自ら意思決定するために数学の知識を有意義に使えるようになることと別言しても良いでしょう。今日、私たちが日常生活において直面する課題――例えば、地球温暖化、不平等、パンデミックなど――は、指数関数、確率論、複雑系、ゲーム理論などの数学の総合的な理解に基づいて対処することができるが故に、全ての生徒がこれらの高度な数学のトピックを身近な存在として捉え、それらを活用(解釈)するためのリテラシーが必要なのです。

     同時に、その活用(解釈)は、自分一人の力のみで行う必要はないという立場を貫いていることも本報告書の特質です。私たちが生活においてそれらの高度な数学を活用する際には、電卓やソフトウエアを使ったり、ネットで調べたり、専門家に質問したりすることができます。むしろ、一切の助力を得ずに高度な数学を活用しようと思う方が現実離れしていると言えるでしょう。けれども、適切な検索語を特定したり、調べようとする対象が何かを把握したり、誰に質問すべきかを判断したりする力がなければ、それらの有益なツールやリソースは活用できません。

     つまり、理工系の学問を専門に学ぶ者を除いて、微積分やトポロジーなどを前提とする複雑な計算問題を自分一人でミス無く短時間のうちに解く力は全く必要ないのです。その一方で、微積分、トポロジー、指数関数、確率論、複雑系、ゲーム理論などの高度な数学に一度も接する機会もないまま数学から疎外された状況に留まっていたのでは、日常生活において直面する課題に対応するために数学を活用しようという発想すら出てきません。また仮に、偶然そういった着想に至ったとしても、活用する上で力を貸してくれる様々なツールやリソースの使い方すら分からないという状況に陥らざるを得ないでしょう。

     CCRによる「現代数学科」の国際スタンダードは、日常の事象を数理的に処理する算数の計算技能を確実に修得させつつ、今日を生きる私たち全員が共有すべきこのような数学的リテラシーを9年生(日本の中学3年生)までに培い、その後は「3分化」のコースを想定して一人ひとりのキャリアプランに即した数学教育を提供しようという構想に基づいて策定されたものです。

     ここで、小学校・中学校では既に実施され、高等学校では来年度(2022年度)から学年進行で実施されることになる新しい学習指導要領の総則が、共通して次のように定めていることを改めて確認しておきましょう。

      児童(小)/生徒(中・高)が、学ぶことと自己の将来とのつながりを見通しながら、社会的・職業的自立に向けて必要な基盤となる資質・能力を身に付けていくことができるよう、特別活動を要としつつ各教科等(小・中)/各教科・科目等(高)の特質に応じて、キャリア教育の充実を図ること。


     一人ひとりの子供たちが「学ぶことと自己の将来とのつながりを見通」せるようになることは、キャリア教育にとって極めて重要な課題です。それぞれの教科で学年別に指定された内容を取り扱うにあたって、それらの学習と子供たちとの将来とのつながりが実感できるような工夫が必要となることは言うまでもありません。

     けれども、今回のよもやま話の冒頭で紹介したCCRによる動画が指摘するように、今日の私たちの日常生活における最大の問題のいくつか――例えば、地球温暖化、不平等、パンデミックなど――は、指数関数、確率論、複雑系、ゲーム理論などの数学の総合的な理解に基づいて対処することができるものであることを合わせて視野に収める必要があるのではないでしょうか。

     具体的には……

     「君たちが今学んでいる“2乗に比例する関数”」を用いて読み解くことができ、それを活用して解決できる問題も、日常生活の中に確かにある。けれども、君たちが学んでいる関数の先には「指数関数」があることを知って欲しい。それこそが今、コロナウイルスの感染者の増加傾向を表すものなんだ。現状の増加傾向を踏まえると、1週間後の感染者はどのくらい予測されるだろう。1ヶ月後はどうだろうか。

     こんな発想で“学びの先にあるもの”が示され、「今の学び」が「その先の学び」を経て「自己の将来」と切り結ばれる道筋が見えれば、「こんな勉強、やっても意味ないよ」という生徒の徒労感・疲弊感は大幅に軽減されるかもしれません。無論、中学生の計算技能では指数関数の処理自体はできませんが、「今の学び」の先には社会を読み解く力の源となるものが確かに存在するし、今の僕/私にも電卓を適切に使いさえすればそこに手が届くのだという事実を実感させることはできるのです。そして、こういった実感が、学習への意欲をグッと向上させる可能性にも期待できるのではないでしょうか。

     CCRが提示した「現代数学科」の国際スタンダードと、キャリア教育との接点は、まさにここにあると言えるでしょう。

     実は、今から3年半近くも前になりますが、よもやま話の第24話(2017年8月6日)において、僕自身が次のような指摘をしています。

     今、生徒たちが取り組んでいる単元は、大学での学びにつながっていますし、社会を支えている知の基礎的な部分を構成する要素ですし、今後解明すべき課題にも連なる一端を内包していることは事実です。このような体系的な知の全容が生徒たち見えていない(=それを生徒たちに見せようとしてこなかった)からこそ、生徒たちは「こんな勉強、どうせ将来は役に立たない。意味もない。つまらない。」と砂をかむような思いをしているのではないでしょうか。それゆえに、教科の学びを受験の方便として誤解してしまっているのではないでしょうか。

     現在の知の体系の形を変えるような貢献をする可能性のある若者は、ごく少数です。いわゆる進学校と呼ばれる学校ですら、例外的な存在でしょう。でも、今の学びと大いなる知の体系とが連綿とつながっており、その体系の先端には、未だ解明されていない課題が誰かを待っているのだという事実は、どんな子供も実感する必要があるように思います。険しい山道を、その先にある山の全容や頂から見える景色を全く知らされないまま、ひたすら上り続けることができる人はどれほどいるのか。おそらく、その数は極めて限られるのではないかと思います。

     教科におけるこれまでの指導は、数学に限らず、「険しい山道を、その先にある山の全容や頂から見える景色を全く知らされないまま、ひたすら上り続けること」を生徒たちに強いてきたのかもしれません。第24話において僕が想定していた「山の全容や頂」と、CCRの提示する「数学を活用して世の中を読み解くためのリテラシー」との間には差異がありますが、それ自体を対象化して精緻に考察することは僕自身の“宿題”とさせていただき、今回のよもやま話はそろそろこの辺で区切りをつけた方が良さそうです。

     …その前に、あとほんの少しだけ付言させて下さい。

     経済産業省内に置かれた「理数系人材の産業界での活躍に向けた意見交換会」が、2019年3月に報告書『数理資本主義の時代~数学パワーが世界を変える~』を取りまとめ、「この第四次産業革命を主導し、さらにその限界すら超えて先へと進むために、どうしても欠かすことのできない科学が、三つある。それは、第一に数学、第二に数学、そして第三に数学である!」とセンセーショナルに宣言したことを記憶していらっしゃる方も少なくないと思います。ここで求められていることを端的にCCR流に言い換えれば、理工系大学・大学院に進学し「数学を生み出す」人材の育成です。

     一方、文部科学省内に設置された「Society 5.0に向けた人材育成に係る大臣懇談会:新たな時代を豊かに生きる力の育成に関する省内タスクフォース」は、2018年6月に『Society 5.0に向けた人材育成~社会が変わる、学びが変わる~』を取りまとめ、「Society5.0 において、我が国の強みを十分に活かすには、一握りのスーパースターがいるだけでは不十分である」と指摘しています。そして、今後「共通して求められる力」として「①文章や情報を正確に読み解き、対話する力、②科学的に思考・吟味し活用する力、③価値を見つけ生み出す感性と力、好奇心・探求力」を挙げているのです。ここで言われる「①」「②」は、まさにCCRが示した「数学を活用して世の中を読み解くためのリテラシー」と大きく重なるものですね。


     今回もまた、とてつもなく冗長なよもやま話にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。(「短く」「楽しく」を目指す努力は継続しているのですが、実態が伴わず、お恥ずかしい限りです。)

     今年2021年はあと2日で幕を閉じます。来年こそは、私たちの生活に影を落とす新型コロナウイルスから自由になり、いろんなところに直接出向き、いろんな人と直接話しあい、笑いあえる年になるといいですね。

     本年中に賜りました様々なご指導やご厚情に心から感謝し、年末のご挨拶とさせていただきます。

    藤田 晃之


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藤田晃之

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